最近やっぱり実学系の本も読んでいかないといけないな〜と思って、前から興味を持ってたボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を読んだ。 最近自分の興味は「広告」「都市」「郊外」といったキーワードに向かっているので、今年はボードリヤールを積極的に読んでいこうと思う。『消費社会の…』には「シミュラークル」って言葉でてこないんですね。
(いつもどおり、この記事は『消費社会の…』のまとめだったり、全体読んでどういうことを考えたのかといった記事ではない)
第3部 マス・メディア、、余暇 > 2. 消費の最も美しい対象―肉体 > 肉体は女性のものか という節に、このような一節がある。
数千年にわたって虐げられ忘れられていた女性たち、若者たち、そして肉体が公然と姿を現したという事実は、たしかに潜在的には最も革命的な出来事であり、したがっていかなる既成の社会秩序にとっても危険極まりない事態であるはずなのだが、実際には「人間解放の神話」として体制に組み込まれ再利用されてしまう。
この部分以外との接続を無視して、この部分だけから考えてしまったことがある。
ブログのタイトルの由来にもしているように、自分は『未来世紀ブラジル』という映画が好きだ。この映画は1984年の『1984年』 というコンセプトで作られている。
1984年も未来世紀ブラジルも超かいつまんで言うと「超監視&管理社会のもとで暮らしてきた、むしろそのシステムを支える側にたっている立場の"男性"がとある"女性"との出会いによって<解放>という可能性に目覚める話」といえるだろう。両者ともに最終的には失敗し、システムによって「矯正」されてしまうわけだが。
このような物語の中でどうして<女性>が解放のきっかけとなるのかちゃんと考えていなかったことに気がつかされた。そこを立ち止まって考えてみると、かなり素朴な性別観にもとづいているんじゃないかと思った。
つまり旧来的な、男性=理性的 / 女性=感性的 みたいな二項対立にもとづくものなんじゃないかと。
パラノイア的な理性のもとで抑圧されてきた/また抑圧を行う主体でもあった男性主人公が<理性の外>にある女性と出会い性欲を抱く、つまり理性に抑圧されていた人間本来の「自然」に目覚める。なんと単純な物語なことか。(1984年は特にそう)
しかしこの逸脱はシステムにとってはすでに織り込み済みのものである、つまり事前に引かれた道筋を通ってしか逸脱ができないようにコントロールされている。だから捕まるときはあっけなく捕まってしまうんだろう。
といったことを考えていくと、<ブラジル>の恐ろしいところはくまなく監視が行き届いているところではなく、そこからの逃げ道にたいする想像力を奪うところにあるんだなぁと。
尾崎豊の歌なんて、逸脱しているように聞こえて実は「若者の逸脱はこうでなければならない」という非常に抑圧的なものなんじゃないだろうか。