ラカンによる愛の定義―「愛とは自分の持っていないものを与えることである」―には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。
(S.ジジェク 『ラカンはこう読め!』より)
最近コミュニケーションの技法について考える。というよりも、消費社会に生きる我々にとってはすべてがコミュニケーションなのだ。
一般的に、親密な相手だからこそ秘密を打ち明けるものだと考える。でも、この効果は逆転して「うっかり秘密を打ち明けてしまったことによって、打ち明けた相手のことを親密に感じる」という効果があるらしい。いま注目のメンタリストDaiGoがいってたんだから間違いない。情報源は有吉ジャポンだ。
こっちじゃない。 |
(うっかり秘密を打ち明けてしまったということは、気づいてなかったけど自分はこの人に対して信頼感を持っているんだという「ニセの気付き」を与えるのではないだろうか。)
だから人の話を聞くのが上手な人は、うまいこと相手に秘密を喋らせることによって親密感をもたせることができるんだという。
その生き物はまったく人畜無害で、眼で見ただけなら、ほとんど気がつかず、すぐに忘れてしまう。だがそれが、眼に見えないうちに、どういうわけか耳の中に入ってくると、大きくなり、孵化して、場合によっては脳に入り込み、犬の鼻から侵入する肺炎双球菌のように、脳の中で大繁殖する。……この生き物とは<隣人>のことである。
でもさらに逆転して、「秘密を喋られたことによってうまれる親密感」というのもあるのではないだろうか、というのが最近の考え。
相手が急に思っても見なかった私秘的な話をしてきたら、気がついていなかったけど自分はこの人にそんな信頼されているんだ、と思わされてしまう。
それまで相手に対して薄い印象しか持っていなかったとしても、それ以降は相手のことを嫌でも意識せざるを得なくなるだろう。
冒頭にも引用した『ラカンはこう読め!』には次のような一節がある。
……ということは、彼のことを嫌いというわけではないし、肉体的接触を望んでいないわけでもないのだ。むしろ彼女の問題はそれを望んでいることだ。彼女の不平の要点は「あなたはなんの権利があって、私の欲望を掻き立てるの?」ということだ。この<物>としての<他者>の深淵から、ラカンが「土台を築く言葉」という表現で何を言わんとしたのかが理解できる。これは、ある人間になんらかの象徴的称号を付与し、その人間を、こうであると宣言されている存在に変え、象徴的アイデンティティを作り上げる言葉である。「君は私の妻だ」。「あなたは私の師です」。
相手に秘密を打ち明けるというのは、明示的に私にとってあなたはこういう存在ですと伝えているわけではない。しかしその意図としては同様である。「あなたは私にとって秘密を打ち明けるに値する親密に感じる人物です」というメッセージだ。
自分の望みのように、相手と象徴的な関係を構築するにはその主体としてのアイデンティティを相手にも持ってもらう必要がある。そこでこちらから相手に対して象徴的な位置を指定することによって、相手の意思決定に対して支配力をもつことができるというわけだ。
今回事例にあげているのは「親密な関係」であるので、相手には自分にとって「親密さを感じる相手」という象徴的アイデンティティを持たせたいということになる。そのためには、こちらから一方的に秘密を打ち明けるのが有効な手段であるのではないかと考えたわけである。