この世界の片隅に

各所で、特にtwitterで斎藤環さんによって絶賛されているので気になってしょうがなかった。というわけで生まれてはじめて一人で映画館デビューしてきた。

空襲のシーンなども後半出てくるが、最初の方は食料がない中雑草を工夫して料理する様子や着物を仕立て直して「もんぺ」を作る様子など、民俗・風俗資料館とかで語られそうな内容がメイン。(に感じた)いわゆる「泣ける映画」として紹介されているらしいけど、僕はそういう感情にはならなかったし劇場の人たちもあまり涙を流したりしてる様子はなかった。(ひとりだとついつい周りを気にしてしまう)

  

日中戦争もカウントするとそこそこ長くなるわけだが、太平洋戦争は1941年12月にはじまり1945年8月に終わっている。四年間ないのである。
そして、いくら日本軍が最初だけだったとはいえ、四年間毎日空爆があるわけでもなく、本土で暮らしていれば「なんともない日」が四年間の大半を占めていただろうと予想される。
これがやはりポイントで、戦時下の暮らしというものは一旦始まってしまえば耐えられるレベルであり、多くの人にとって積極的に体制を転覆しようと決意するほどにはならないということは伝えられるべきなのではないだろうか。
はだしのゲンに代表される戦争の悲惨さを描くことにフォーカスした創作物を見ていると、あの戦争で日本人は9割くらい死んだんじゃないかとすら思ってしまうわけだが、実際には1割にも達していない。
耐えることができなくはないからこそ、戦争はないに越したことはないけど始まっちゃったししょうがないね、といった諦観が支配的になってしまった。それがなんだかんだ国民が戦争を止められない理由なんだと思う。

そんな戦争が終わった瞬間、主人公たち一家はみんなやっと終わってくれたと胸をなでおろすのだが、主人公だけは「最後の一人まで戦うんじゃなかったのか、ここにはまだ五人もいるのに!」と激しく感情をむき出しにする。
爆弾で自分は右腕を失い、母親を原爆で失い、戦争にいろいろなものを奪われてきたにもかかわらずである。
サンクコストを人は正常に認識できないというが、主人公の場合も自分は今までいろいろなものを捧げてきたのに、今更戦争辞めますなんて勝手だ、自分が失ったものと同じくらいを取り返すまでやめられないという感情ではないだろうか。
これ以上戦争を続けたところで何もかえってこないどころかますます多くのものを失うことはわかっていても、今まで奪われたものが無駄になってしまったことのほうが悔しいのかもしれない。もう破滅するまで突き進みたいという衝動に襲われていたのだろう。

戦争という大きな流れに翻弄される無力な人々を描いているように見えて、実は多くの人たちが積極的にではなくとも戦争を受け入れ、流れを加速させてしまっていたというのがこの映画で描かれていたことなんじゃないだろうか、というのが感想でした。

余談だけど、のん(旧能年玲奈)の演技は好きじゃないなぁ、と思った。日本昔ばなしの市原悦子を目指しているのだろうか。