お金を入れて鈴を鳴らして…

二礼(ハイハイ)二拍手(ぱんぱん)神様おねがい~(お・ね・が・い)

諏訪大社めぐり三泊四日の旅(うち一泊二日は研究室旅行)も二泊目、いよいよ単独行動の時間。
これまではそんなに神社めぐりも出来なかったので、これからじっくり見て行きたいところ。現時点で見たのは下社春宮・秋宮。下社の方は住宅街の中にあるということもあり、旧官幣大社とか別表神社とか言う割には小粒だった感が否めない。どちらかといえば春宮のほうが風情があってよかった。

目がひとつ取れてしまった…
すわわっ!(高音)笑えないよ!

  「神社に行った時、賽銭を入れるかどうか」これは大きな悩みどころである。
神社めぐりをしているくらいだから入れるのは当たり前なのではないか、と思うかもしれないが、そう簡単な問題ではない。

僕は神社巡りこそすれど、国家神道の流れをくむ現代の神社本庁は好きではないというか、むしろ敵だと考えている。神政連や日本会議のような団体が政治に積極的に関与している現状は非常に危険だし、政教分離原則にも反していると思う。(今のところ、創価学会と公明党の関係はこの原則を破っているとは考えていない。宗教団体が政治団体を傘下に持つことが禁止されているのではなく、為政者が宗教的信条にもとづいて政治を行うことが×という認識。)

一部神社本庁以外の団体に所属している神社もあれど、殆どの場合「賽銭を入れる」という行為は神社本庁の収入につながる。はっきり言って反社会的勢力に寄付するようなものである。これはできれば避けたい。
原始的な信仰の痕跡、人ならざる者への「畏れ」。それを感じに神社を訪れているのであって、現世に生きる「ただの人間」が神の子孫だなんてナンセンスだし、神道になんの興味のない人々が多い現在、神道と政治が結びつくことは害悪でしかない。

また、賽銭という慣習自体よくわからない。Wikipediaの記述が正しければ、賽銭という慣習が生まれたのは室町時代で、「賽銭箱 」にあたるものが最初に記録に現れるのは1540のことであるそうだ。もともと米を捧げる風習があったのが、貨幣が一般的に使われるようになり賽銭という形に変化したそうである。
一般的に賽銭を入れる理由は「神様に何かしてもらうため」だと考えられている。他の説では賽銭に穢れを託すことで自分から穢れを落とす、というもの(これは知ってた)や賽銭を投げ込む音が鈴の音の代わりになるというもの(初耳。ほんとか?)もあるそうだ。

まず、神というものが本当にいたとしたら、現世のことを気にするだろうか。我々にできるのは気まぐれな神々機嫌を損ねないようにすることだけあり、あわよくば何かお願いを叶えてもらおうなんてのは傲慢であるように感じる。
また、賽銭で穢れが落ちるという説はかなり疑わしいと思う。もともと米を捧げていたということは、そういう性質のものではないと感じる。

そんなこんなで、最近はあんまり賽銭はしたくないなぁ、と考えている。