高校の英語教師に、すごい人がいた。
僕が受験した2010年の東大英語は変更点がいくつかあった。
塾や予備校のマニュアルでは「解答に具体例は入れてはいけない」が鉄則であった要約問題に「具体例を入れて」という一節が付加されたり、自由英作文セクションが縮小されて穴あきの英文に適切な語を入れる語法問題が登場したりとそこそこ大きな変化だったと思う。
その先生はこの変化をなんと予測していたのである。
結局何ページ読んだのだろうか。 |
ただ、授業を誰も聞いていなかったのが悔やまれる。おそらくその先生の予測を活かせた人は一人もいなかっただろう。
(「予測していた」といってもノストラダムスの大予言並みに後付で解釈を加えたら、ということなのだが。)
その先生は授業中よく自慢?話をしていて、そのなかの一つに「(お前らみたいなガキにはわからないだろうけれども)映画は俳優の名前じゃなくて監督の名前で見るようになると面白さがわかってきているんだ」みたいな話があった。
そのときは(今以上に純真だったので)そういうものなのか~と思っていた。
でも最近になって思う。やっぱり現代の映画は俳優で見たほうが面白いんじゃないだろうか。
(映画は全然見ないのであまりえらそうなことはいえないんだけれども)
僕はサン・ジェルマン伯爵じゃないので直接見てきたわけではないのだが(というわけで、これからの記述は全部想像でできている。)、映像メディア以前の演劇には今のような「タレント」システムは存在していなかっただろう。
おもいっきり女優名が全面に押し出してありますが。 |
このミュシャのポスターなんかを見てみると、主演の女優の名前しか書いていない。
(ちなみに、プラハのミュシャ博物館は日本語を始め韓国語や中国語の図録まで売っていた。(韓国語はなかったかも)僕が訪れた時はちょうど日本からの団体ツアーが来ていて、ガイドさんの説明にタダ乗りすることができた。文化的に「東アジア受け」する絵なんだろうか。)
演劇を見た経験は数えるほどしかないんだけど、見た中で言えば主役級はテレビでみたことある人ばかりだった。「サロメ」は多部未華子が、「黒蜥蜴」は美輪明宏が出てきた。(「黒蜥蜴」では舞台から消えた黒蜥蜴一行が後ろから出てきて、客席の間を通り舞台に戻るという演出があった。ちょうど僕の隣を美輪明宏が通ったんだけれども、線香のような香りがしたのを覚えている。)
けど、それ以外は多分舞台専門にしている俳優ばかりだからだろうか、誰も見知った顔がいなかった。
演劇をたくさん見ている人はきっと「この人は××にも出ていた人だ」と思ったりはするんだろうけど、それでもそういう舞台専門俳優は「何かを演じている姿」だけしか見ることができない。
映像メディア以前の俳優はおそらく全員がそうであっただろう。(パトロンみたいなひとたちは直接俳優たちと交流することができたのかな?)
この状況下においては、観客にとって俳優の個人名というものの意味は「複数の役を演じている人物A」を束ねるものとしての意味しか持たない。
オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」から例をあげてみると、シビル・ヴェインの個人名はシビル・ヴェインがどんな人物かとは無関係な標識でしかない。シビル・ヴェインの名は「イモジェン」や「ジュリエット」の立体交差点なのである。
(続く)