写真の歩みをさらにたどってほしい。そこで諸君は何をみるか?そう、写真はますますニュアンスをまし、ますますモダーンになる。その結果、それを美化することなしには、もはやどんなドヤ街も、どんなゴミ溜めも写真化しえない。ましてや、ダムやケーブル工場ともなれば、「世界は美しい」ということ以外に何かを表現することなどできるわけがない。『世界は美しい』――それはレンガ―=パッチュの有名な写真集のタイトルだが、そこに頂点に達した新即物主義の写真を見ることができる。つまり、対象を完成した流行の様式で捉えることによって、貧困をも享楽の対象にしてしてしまうことに成功したのである。というのも、以前には大衆の消費から遠ざけられていた内容――春とか有名人とか諸外国とか――を、当世風に加工して大衆に供給することが写真の経済的機能であるとすれば、現在あるがままの世界を内側から――ことばをかえていえば、当世風に――修正するのが、写真の政治的な機能の1つなのである。
岩波現代文庫の「ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』精読」(多木浩二)に引用されているベンヤミンの『生産者としての作家』の一節である。
最近研究室で「池袋ウエストゲートパーク」(ドラマ版)を見ているんだけど、これについて何か語ることは何らかの階級意識と無関係であることは難しいだろう。
Wikipediaにも「舞台となるのは主に池袋で、登場人物は主役脇役を問わず、多くがいわゆる「負け組」や「サイレント・マイノリティ」に分類されるような、周縁的な存在である。」とあるように、主人公はフリーター、主人公の母親がマルチ商売にハマっていたり、他の主要登場人物もフリーター仲間だったりカラーギャングの首領だったり引きこもりだったり暴力団の二次団体の構成員だったり…。
転落事件とかありましたよね |
社会において何かを語ることができる階級は限られているというか、社会の周縁部は中心部にいる人間によって語られることでしか現れてこない。
例えば少し旬が過ぎた感がある「マイルドヤンキー論」とか、都市に住む人間が地方の典型的かつ伝統的?な生活スタイルを勝手に新しいものとして"再"発見したしただけだという批判がある。
あれなんかまさしく周縁を語ることのできる立場から享楽的に眺めているだけだと思う。
「マイルドヤンキー」ということばを発明したのは東京都文京区駒込生まれで(間は知らないけど)東京の私立大学を出て博報堂に入って…という経歴らしい。人を生まれで判断してはいけないというのがこういう場合に当てはまるかどうかはわからないけれども、前述の批判は説得力を持つなぁと思う。
我々の意識は何らかの階級意識と無縁ということは決してありえないんだなぁ、と。
で、作中には主に2タイプの反社会的勢力が出てくる。1つは古典的なヤクザ、もうひとつは2000年代に登場するカラーギャング。(そのお手本になったアメリカのストリートギャングは80年代から活動してるみたいだけど)
ヤクザの構造は擬似家族的なフラクタル構造であり、カラーギャングはトップに全員がつくという感じ(多分)だといえる。
前者では親の命令について子は責任を持つが子の行動に対して親は責任をもたないという(暴力団対策法ではこの論理は認められない…)ナチ党における指導者原理のような原理があり、後者は一揆みたいな感じでリーダーとその他という構造になっている。(少なくとも池袋ウエストゲートパークではそうなってたよ)
半グレ・チーマー・カラーギャングといった集団は暴力団-暴走族的な強力な規律で縛られた「めんどくせぇ」組織ではなく、もっと楽な組織を求めて出来上がったものと聞く。
ではどうして暴力団のような「めんどくせぇ」組織が昔は主流だったのだろうか?多分だけど、半グレ的なゆるい組織が大規模化するにあたって複雑化していったというのはないように思う。楽な組織を求めて集まった集団に規律を導入しようとしたら反発は必至だし、命令されるだけでなく命令する方も面倒だと思うから半グレ的集団を作ったのだろうし。
その点、G-BoysよりもBlack Angelsのほうがモダンな組織だといえる。
こういった反社会的勢力の組織構造も時代の意識を反映しているということなのだろうか。