映画『ナラタージュ』を見てきました。
現代日本の文化に疎い自分はまっっったく知らなかったんだけど、原作はすごい有名らしい。
映画の内容自体は基本的にノーコメントにさせていただきたいんだけど、ひとつだけ。 物語上の意味とかとは無関係に有村架純が裸足で雨の中歩いている画面がなぜか面白くてしょうがなかった。(覚醒剤キメてたとかじゃないよ)
感想が↑程度しかないことからもうお察しなわけだけど、原作からかなりエピソードが省略されているからわからなくてもしょうがないというフォローももらっている。たとえば物語の途中、1人自殺する人が出てくる。それが前述のシーンが出てくる理由になるんだけど、その人物について映画ではほとんど触れられてないので映画の中では完全に浮いたエピソードになってしまっている、原作を読まないとわからないでしょう、と。 ここはなんか無意味な死を与えられているようで可哀想。物語をすすめるためだけに作者に殺害されているのである。創作作品の都合のために殺人が行われているのってどうなの、と思う。
ストーリーについての感想は以上にさせていただいて、本題に入りたい。
この映画をみていて、画面のボケがすごいということに気がついた。(写真で言うボケ、映像に対してもボケでいいのかな) 特に人物の顔がアップになるシーンは顕著。「ここを見なさい!!」と言わんばかりに、そこしかピントがあっていない。
検索してみたけど、よくわかる例はなかった。。でも↑みたいなイメージ。
画面内に2つの顔が同時に映るところなんかは「はい今はこっち見て、はいそろそろこっちねー」という感じでフォーカスが切り替わる。
映画について言うと、自分は量を観ているわけでもなくジャンルも偏っているわけだが、こういう観客の視線を無理やり操作するような映画は見たことない。 画面内でここに注目してほしい、というのは制作側の意図としてもちろんあるだろう。でもそここそ腕の見せどころなのでは?観てほしいところ以外はフォーカスを外して見えなくしてしまう、というのは逃げじゃないか。これはズルだといいたいくらい。
スクリーンを通して世界を観ることと直に世界を観ることには決定的な違いがある。 人間の視覚は、「見える」のではなく「見る」ことであり、見たいものを見つけてそれを見るという能動的な活動である。 一方で、スクリーンに映し出されるのは撮影者が映したかったものであり、見る側は何を見たいか選択する自由がない。 それはわかっているけれども、にしたってここまで露骨にコントロールされると冷めてしまう。まーなんか見てて愉快な映画ではなかったですね。
余談だけど、写真において「ボケ」を重視する傾向は日本にしか無い、みたいな記事を読んだことがあるような気がする。(超うろ覚えです) ヨーロッパやアメリカでは「ボケ」がある写真があまり高く評価されないとかなんとか。
好まれる視覚表現に対しても地域差、時代差があるんでしょうね。