レディ・プレイヤー1とメタバースの夢

話題のレディ・プレイヤー1みてきました。ちなみにスクリーンはIMAX 3Dだったんですけれども、いうほど違うかな?という感じ。まぁこれは余談ですね。 あと、核心的なネタバレはしていないつもりですが、あんまりそういうデリカシーはないほうなので知りたくない人は避けてくださいね。

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本作では、世界中の人々がOASISという単一の仮想世界での生活にのめり込んでいる様子が描かれます。我々が歩きスマホをしているのと同じノリで、町中をVRゴーグルを付けてあるきまわっているくらいに。 現実世界は貧富の格差が拡大し食料飢饉などもあってだいぶ荒廃しているようで、どちらかというと貧しい人たちのほうが入れ込んでいることが示唆されています。

「現実世界」が描かれるシーンでも、現れる人物はVRゴーグルをつけてアッチの世界に行っているというシーンが多いけれども、特に主人公の住むスラムの住民はみんなVRに夢中。一方で、数少ない富裕層であるIOI社の重役たちにとってはOASISは単なる金儲けの道具に過ぎないという。 クライマックスの対決はこの両者のぶつかり合いになるわけです。

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このポスター、スター・ウォーズのパロディなのかな?と思いました

VRではないけれども、セカンドライフってちょうど10年くらい前にはやりましたよね。あれも現実世界とは違うもう一つの人生を送ることができるという触れ込みでした。 でも個人的には、こういう「もう1つの世界」という夢は80年代的?80年代かは自信がないけれども昔の人が持ちがちなビジョンで、自分たちの世代やそれ以降の世代には存在していないような気がしています。

そしてこれはインターネットに対するビジョンにもいえて、むしろ「もう1つの世界」に対する想像力を失ってしまったのはインターネットが現実に実現したことの影響にあるのではないでしょうか。 具体的に言うとインターネットが世界中の人々を接続する、マクルーハンのいう「地球村」であるようなビジョンは、実際にインターネット(とそれを利用するためのデバイス)が身近にあった人々にとっては、現実感を持っていないように感じます。

メディア論―人間の拡張の諸相

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それよりもむしろ、限られたコネクション(特にリアルで形成されたコミュニティ)を強化し、そこにアテンションを集中させ、社会の分断を強化するように働いています。いわゆるエコーチャンバー現象というやつですね。 どんなにテクノロジーが物理的な距離を超えたコミュニケーションを容易にして膨大な量の情報を手に入れることを可能にしても、人間が関心をもつことができる対象の数はそれほど増えません。そうなると自分にとって都合の良い・心地いいコネクションや情報ばかりに気を向けていくようになっていくわけです。

マクルーハンがいったのとは別の意味で「ムラ」社会に向かっていっています。 インターネットにせよ仮想世界にせよ、みんなで1つの別の世界に行くという想像は銀色の服とか顔が四角い人型ロボットのようなレトロフューチャーの域にはいりつつあるような気がします。

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第一、現実がいやで仮想世界に逃げ出すのならば現実世界の人口がそっくりそのままいるような仮想世界に需要はないんじゃないでしょうか。 現実に嫌気が差して仮想世界に逃避したい場合、少なくとも自分がその世界のなかでヒエラルキーの上半分にいるような世界じゃない限りあまりいきたいとは思わないような気がします。 そういう時代では、やっぱり人間がいる仮想世界じゃなくて、人間に見えるけれどもうまく接待プレイしてくれるボットがたくさんいる仮想世界のほうが求められるはずなんですよね。

レディ・プレイヤー1がおじさんたちの憧憬を呼び起こすとともに、そうじゃない世代もワクワクできる映画であることは否定しませんが、VR時代をとらえた作品ではないんじゃないかなぁというのが、感想です。

ちなみに、原作のほうはこれらしいです。

ゲームウォーズ(上) (SB文庫)

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