ホモ・デウスを読み終わって

ようやくHomo Deusを読み終わった。

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

注目すべきなのは近代の「人間性」というものが近代の国民国家の成立と密接な関わりをもっているという点。

戦争をするとき、いつ裏切るかわからない傭兵よりも国民軍のほうがいいね、というのが

主権・領土・国民の緊密な連携ができあがるまでは支配者階級は強くなりたければ戦争屋をやとえばよかったわけである。

近代政治哲学 ──自然・主権・行政 (ちくま新書)

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それがナポレオン以後主権・領土・国民の三位一体構造が出来上がると支配者階級がより大きな富や権力を手にしようと思えば自国民を強い軍隊に組織せざるを得なくなった。 そしてまた産業革命と組み合わさり、工業力の向上が国力の向上に不可欠となると直接暴力をになう兵士だけでなく、国民全体をよき労働者にする必要も出てくる。

前までは何も考えずに税をしぼりあげていればよかった領民が、自分のためにがんばってもらわないと困るお伺いをたてる存在へと変化したわけである。 一方で国民が武器を手にするということはその国民が自分たちと運命共同体として振る舞うインセンティブを与えないとならないという消極的な理由、より健康で強い体になって兵士としても労働者としても役に立つ存在になってほしいという積極的な理由からも、国民の福祉という考え方が出てくる。歓喜力行団なんか目的をよく表している。 国民の側からしても、自国が強くなることは自らの生活にとってもよい。 理由はともあれ、国家は同じ方向を向く有機体となった。

人間というのが、この有機体を駆動する他では代替し得えない万能の機械だからこそ重宝され、「大事に」してもらっていたわけである。

だが技術の進歩とともに、軍事でも産業でも人間の重要性は下がってきた。

先進国を中心に徴兵制は廃止が進んでいるが、これは戦争の道具が高度化しすぎて専門職でないと役に立たないどころか足手まといになるからだ。 (実際に現場で足手まといになるというよりも、徴兵で獲得した兵士が戦死したらすぐに厭戦ムードが国中にひろがってしまって使いづらいといった理由かも。) まだ人工知能で勝手に動いているわけではなくてラジコンみたいなものだがドローン戦闘機はブンブン飛んでいるし、兵士の数はますます減っていく。

製造業はロボットの主戦場だ。メンテナンスこそ必要かもしれないが疲れを知らず気分によって生産性がかわることもないロボットと人間、どっちが製造業の未来を担っていく存在だろうか。その答えは言わずとも明らかだ。 なによりロボットは一度制作に成功すれば無尽蔵にコピーすることができる。人間の熟練工を育てても熟練工が1人増えるだけだが、熟練工並みのロボットは一度完成すればあとは何万体にでも増える。 近年は頭脳労働も機械におきかえられつつある。

たとえば。

forbesjapan.com

軍事にせよ産業にせよ、今の技術水準でみれば機械が人間を置き換えているのは一部にすぎない。 しかし、一度成功すれば無限にスケールする機械に投資するほうが人間に投資するよりもいいというのはもはや否定しようがない。

戦争では兵士は死ななくなるし、労働者は疎外的な労働から解き放たれる。 まさに「人間らしい」世界の変化によって人間がいらなくなるというのは皮肉だ。

国民の福祉が重視されていたのは人間というのが投資先として優良だった一時代の特異的な出来事にすぎず、あらたに知能を持った機械というよりリターンの大きい投資先が出てきてしまった。 となると、はたして国民の福祉なんてものは維持されるのだろうか、、?


この未来に抵抗する手段がブロックチェーンを中心とする分散技術なのかもしれない。

特に旧西側諸国では、国民が権利の拡大を推し進め有機体国家を解体しつつある。 それが民主主義とよばれるものだが、これは本質的に同じ国民でも自分と他人は違うということを前提とするものである。(同じだったら選挙も投票もをする必要がない)

人間を置き換えるテクノロジーによって「揺り戻し」が本格化する前に、分散技術によってさらにこの解体を加速すること。これが我々の取りうる抵抗だというふうに考えた。