「いただきます」に隠された傲慢

食事のときに「いただきます」と、自分の命のために食べられる命だったり、その生産から流通にかかわり食べ物をとどけてくれたひとに対して感謝するということは日本固有の美徳としてよく語られる。

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というのは、とても耳障りがよいのだが、実体としては日本は世界でもトップクラスの食品廃棄量を誇る国である。 最近山手線など画面付きの電車にのったひとは、広告で「おむすびころりん一億個」というフレーズをめにしているかもしれない。

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「いただきます」「ごちそうさま」という言葉が生まれた文化を否定するわけではないけれども、その理念と実体はかけはなれており、言葉だけが残って食品を大事にするという行動は残念ながら残らなかったようだ。

解決策としては、道徳的な話を説くよりもきちんとインフレを起こすというか、、食品が高くなればムダも当然へるんじゃないだろうか、と思う。

いただきます批判の着想

しかし、ここではさらに一歩進んで「いただきます」という言葉に隠された傲慢について注目してみたいと思う。この着想にいたったきっかけは、「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」という本を読んだことである。

ちなみに、もともとは「ピダハン」についての本を読みたかった。 ピダハンとは、本当なのかは議論があるようだが使う言語が数の概念を持たない、再帰構造を持てないなどと言われている民族で、言葉と世界認識の関連のうえで題材に挙げられていたりする。

そのピダハンに関する本として定番の、↑「言語本能を超える文化と世界観」の関連書籍として上記のようなタイトルの本が出てきていたのでピダハン関連の本なのかなと思って借りたが違った。

プナンはいただきますもごちそうさまも言わない

こちらで題材になっているプナンという民族(の一部)は、現代文明と隔絶されているわけではないが狩猟採集民であったころの伝統を色濃く残している。 そのプナンは、食べ物に対していただきますもごちそうさまも言わない。

というのも、狩猟採集民の世界観では、食べ物を食べるというのは自然なことであり、肉食動物がほかの動物を狩って食べる際に感謝しないよう、それぞれの生き物が生きる上で当然とかんがえているからだと思われる。 その代わりに、必要な分しか獲らず、余剰を狩ることはない。

この背後には、自分たちの食事も生物のエネルギー生産の連鎖の中のひとつのプロセスにすぎない、今は自分たちが食べるけどいずれは自分たちが食べられる側になるということを理解しているということがあるのではないだろうか。

「いただきます」「ごちそうさま」は人間で終わるプロセスを作る

それに対して、いただきますという言葉、「人間」が他の食べ物を食べることに感謝するという事態には、自分たちは常に食べる側でしか無いという認識のもとでしかそんなことは言えないのではないか?と思わされた。 たとえとして適切かはわからないが、、いくら対戦チームの間に実力差があったとしても、スポーツの世界で試合の前に「勝てる試合を用意していただけて感謝しています」終わった後に「勝点をいただけて感謝しています」というようなことを行っていたらヒンシュクものであると思う。

いただきますとかごちそうさまという言葉には、やはり人間は常に食べる側であるという意識が発露しているのではないか。 その「負い目」に言い訳をつけるための感謝というのが「いただきます」なのかもしれない。 (よく得れば、火葬というのは死後の人間を意地でも他の生物の食物になんかさせないぞ、菌に分解されるくらいなら焼いてやるという、絶対に生物のエネルギー生産のプロセスを人間で閉じてやるのだという強い意志のともなう行為である。)

必要なぶんだけ食べる生き方には食べ物に対する負い目がない

自分たちが生きるためにひつような分だけを食べている状態では、食べるために他の命をとることは生きるために当然のことであって負い目を感じる必要はない。 農耕を初めて、自分たちが生きるために必要な量を超える食べ物を生産し浪費するようになってはじめて負い目を感じ、「いただきます」という言葉でその負い目を忘れようとしているのかもしれない。