有明ガーデンというショッピングモールに行った。 タワマンを含む複合街区の一部をなしているところだ。
タワマン一体型ということもあり、ここには周囲の小成金ファミリーを対象にした幼児教育施設がたくさんある。
本屋も、英才教育に関するような本がたくさん。
湾岸のタワマンを買いそうな層の親心をくすぐる場所なのだろうか。
RPGのような子育て
この光景を見て思ったことがある。
金をかけて強化アイテムを買えばちからが+3される的な、ドラクエやポケモンのような世界観で子育てというものを捉える風潮が強まっているのではないか。
中学受験によって得られるもの
「名門校」の力はコミュニティ
自分が開成出身じゃないけど子供に開成を受けさせようとする親御さんは、開成なら素晴らしい教育が受けられるだろうと勝手な期待をしているかもしれない。
しかしそこにいるのは雨が降れば学校に来ない先生、実質教科書を読み上げるだけの先生、一年間で自作のプリント教材が2枚半しか進まない先生。 そして、ひたすら寝るか机に隠れてゲームをする生徒たち。 (でも僕の知ってる姿は15年前だし、今はかわってるかもしれない。)
先生たちの実感としては、開成高校では成績という点では基本的に新高のほうがいいそうだ。 「100傑でみると、新高のほうが優秀だが10傑でみると旧高のほうが強い」と高一の担任(一年間で自作のプリント教材が2枚半しか進まない先生)が言っていた。
※100傑:校内模試で上位100位のこと。(10傑も同様)
飛び抜けた層以外は公立中学に通って勉強してきた子の方が開成中学に通っていた子よりも学力が高いというわけである。
では何が「名門校」に通うメリットなのか?それはコミュニティの力だと考えられる。
コミュニティの力:受験は団体戦
僕の感覚としては、東大の試験は型があるしそれ用の対策をすればするほど、点はとりやすくなる。高校で学ぶことをちゃんと身につけるというのとは別に、東大の入試の解き方を身につけるということが必要になってくる。 例えば東進東大特進(英語)、SEG(数学)、Z会東大マスターコース(物理・化学・国語)で学んだテクニックは
- 英語の大問の解く順序
- 数学の問題の取捨選択
- 国語の解答文字数から逆算する解答に盛り込むキーワードの探し方
- 数学・物理の部分点がもらいやすい記述 等々。
小手先の、、とは言わないが、すぐに役立つテクニックが存在する。 そのテクニックによって10点20点はゆうに変わってくるだろうというのが10年前の実感だ。 まわりに東大を受ける人がたくさんいればいるほどそんなテクニックに触れる機会も増える。
「名門校」の東大合格実績が強い理由の一つは、そういった本としては出回っていないようなテクニックがコミュニティ内で共有される点にある。 筑駒やら開成やら、または鉄緑界やらSEGやらに通わせてもらった子は、そのテクニックへのアクセスによって20点くらいプラス補正がかかっているようなものだと思う。(あくまで個人の感想です。)
もちろん元々のスペック的に高いレベルでの戦いでもあるんだけれども、地方の高校・公立の高校で頑張って、東大受験に留まらない実力をつけた子達を実力では劣るが開成と鉄緑会に通って東大受験のテクニックを叩き込まれた子が東大受験という競技においては上回る、これが実態として起きていることだ。
コミュニティの力:大人になっても
僕は同窓会を活用したことはないので、ここは想像。
同窓会の会報誌なんかを見ると、「xxx省開成会を開催しました」といった部門ごとの同窓会開催報告が上がっている。 こういった場で非正規のコネクションを作れば、やはり人事の場などで多少、補正がかかることはあり得るんだろうなぁと思う。
こんな日本に誰がした
東大の関東ローカル化なんてことが言われている。 ※地方で子どもを大学に生かせるほどの余裕がない家庭が増えたということも原因ではあるだろう
各家庭の親が自分の子どもに将来いい暮らしをしてほしいと思うのはしょうがないことではあるが、その結果として国としても一番金をかけていい人材を育てたい東大に幼少期に親が金をかけただけの子どもが集まりやすい状況が生まれているのはどうなんだと思う。
子どもを育てるのは社会ではなく家庭、という考え方がこの状況を生み出しているのは間違いない。
親が我が子可愛さに教育投資をする。それは親心だからしょうがないことだ。 そこに漬け込む私立学校や塾産業によって、社会のために「頭」で貢献できる人を探すためのものだった受験はどんどんゲームのようになっていく。
親がいなかったり貧しかったりしても自力で道を切り開こうとする子よりも、「課金アイテム」を持たせてくれる親がいる子どもがコミュニティの力でいい学校に行ってコミュニティの力で出世していく。
それは、衰退もやむなしだろうな、と思う。 やっぱり、我が子がいれば我が子が一番可愛いでいいんだけれども、他人の子どもも同じ社会の構成員として見るような社会を作らないといけないと思うんですよね。 子ども「家庭」庁なんて名前にこだわる馬鹿共には関わらせずに。
この記事は、前回の記事の続きを意識してます。