「無意識データ民主主義」と「権威なき権威主義」・「貴族的なもの」(成田悠輔 vs 國分功一郎・千葉雅也)

WIREDのちょっと昔の号を図書館で借りた。 NEW COMMONSという特集号である。

無意識データ民主主義という考え方

「コモンズと合意形成の未来」という副題がついており、合意形成に関する色々な新しい考え方が紹介されている。

この中で、最近テレビでも見かける成田悠輔の「無意識データ民主主義」という考え方が紹介されていた。 ネット版の記事もあった↓↓↓

wired.jp

ネット版記事から引用すると、

選挙は人間の意識的な合意形成を前提とするシステムですが、結局は周りの声や一時の情動、情報などに簡単に流されてしまいます。いっそ選挙の代わりに、無意識レベルの欲求や目的を集約するシステムを構築してはどうでしょうか。

というのが成田の主張。

無意識データ民主主義は、政治参加を投票というたまにやってくるイベントだけにとどめずに各個人の普段の行動から各個人の選好を見つけ出しそれを民意として反映できるような政治参加の仕組みである。

確かに、テクノロジー的にはそういったことも可能になってくるだろうし(データから選好を読み取るところに恣意性は排除できないと思うが)より実際の「民意」が政治に反映されやすくなるだろうというのももっともだ。

しかし、なんとも言えない違和感を抱いたのも事実。 それをうまく言葉にできないまましばらくいた。

民主主義と

その後、また違う本を借りた。

このブログでも暇と退屈の倫理学を取り上げた國分功一郎と千葉雅也の、対談集「言語が消滅する前に」。

ここに取り上げられている対談の一つで、民主主義における「権威なき権威主義」や「貴族的なもの」の必要性について語られる。 貴族といっても世襲貴族の話ではない。

僕解釈でわかりやすい日本語にすると、「良識」とでも言えるだろうか。 民主主義が成り立つためには、参加者が良識を持っている必要がある、というのがかいつまんだ言い方になるだろう。

例えば、今LGBTQの問題がニュースを騒がせている。

newsdig.tbs.co.jp

こういった問題について、残念ながら心の中で「ちょっと同性愛者ってだけで身構えちゃうな・苦手だな」と思ってしまう人がいるのは規制しようがないと思う。

ここで大事なのは、だとしても自分の良識に照らしてそれを行動に出さないようにすることだ。(オフレコの場であったとしても、気心のしれた仲間うちであったとしても。)

日本の投票は無記名だし、本当は自分の内心の声だけに従って投票してもいいわけだ。 でもそこで、「良識的に考えたら差別しちゃだめだよな」という良識に照らした建前で投票行動をすることが民主主義と自由が両立する狭い道なんだろうと思う。

普段から良識に基づいて行動し続けることなんて難しい。そこで、投票というたまの機会だけでも「襟を正して」建前で投票するという行動が民主主義の重要なポイントなような気がしてきた。

無意識データ民主主義は、単に政治参加を増やすということをKPIにおけばいいんだろうけど、その先にあるのは例の秘書官みたいな考えがまかり通る世界ではないか。

シェリングの分居モデル

複雑系とかマルチエージェントシミュレーションの世界で有名なモデルに、「シェリングの分居モデル」というものがある。

mas.kke.co.jp

各個人の差別心は小さくても、それが行動につながると大きな結果が生まれるという数理モデルである。

このモデルのふるまいは、それぞれの人の意識がさほど排他的(人種差別的)でなくても、全体としては地域社会の分居現象(住み分け)が生じてしまうことを示しています。

この単純なモデルが妥当なのか?学生時代の僕はかなり疑ってかかっていた。 でも、無意識データ民主主義が社会実装されたときに生み出す未来は予言できているような気がする。

無意識の行動から生み出されるデータは各個人をプライベートに満足させる(エンタメコンテンツをお勧めするとか)にはいいんだけれども、政治の場に無意識を持ち込むのは危険だと思う。

余談:WIREDという雑誌

取り上げるトピックは知らない・新しい・面白い。 なのだが、なんかそれぞれの記事は掘り下げが甘いような気がして、真面目に読んでも深いインサイトは得られないという惜しい雑誌だ。 なので「トピック」のカタログみたいなものと思って読むのがちょうどいい付き合い方なんだろうなと思う雑誌だ。