フィンランドのデジタル教育の失敗と紙の教科書への回帰
つい最近、紙のノートを使っているという話を書いた。
それと関連しそうな話として、読売新聞にこんな記事が載っていた。
フィンランドは教育先進国として有名だけど、デジタル教科書を導入してIT化を進めた結果、学力(特に読解力)が下がってしまったらしい。そして「デジタル化は失敗だったね」って評価になり、紙の教科書に戻りつつあるという話だった。
やっぱり人間の知能ってデジタルには最適化されてないし、学ぶための自由度がデジタル教材だと足りないのかもしれない。
人間の知能とデジタルな刺激
読解力を測られる時は
数ページにわたる読解問題を解くとき、こんなことをしてないだろうか?
フィンランドで問題になっている「読解力」の低下。読解問題の構造はたいてい文章があって、その後に問題が続くというものだ。
でも、馬鹿正直に問題用紙を前から読む、つまり読解文を最初から最後まで読んでそれから問題を読んで順番に解く…なんてやり方は、基本的にはしない。(もししていたら変えた方がいい。)
普通は、
- まず問題文を読む
- それから読解文を読みつつ、問われている箇所に当たったらその都度解く
って感じで進めるのがセオリーだ。
そのとき、問題のページに指を挟んだり、ページを折り曲げたりすると、読解文と問題を行ったり来たりしやすくなる。試験によっては禁止されてるけど、冊子をバラして同時に見られるようにする手もある。
人間の記憶とデジタルな記録
人間の脳はコンピューターと違って、覚えたことをすぐ忘れるし、そもそも簡単には記憶に定着しない。でも、一度覚えたことは、コンピューターのデータよりも豊かなネットワークを持っている。
デジタルデータの検索は、「データ」そのものに依存する。ファイル名、内容、タグ付けなどが検索の手がかりになる。
でも、人間の記憶はデータそのものだけでなく、偶然的な要素にも結びつく。そのときの匂いや場所、状況によってふと思い出すこともある。
本の中の一節を探すとき、デジタルなら単語検索しかない。でも紙の本なら、「このあたりのページ」「見開きの右上」といった偶然の要素を手がかりに探せることもある。
これを逆手に取ると何かを覚えるときは、他の刺激とセットにすると効果的ということもある。 試しやすい例で言えば、英単語を覚えるとき、英単語と和訳の文字だけを見るより、イラスト付きの方が記憶に残りやすい。
学校は学ぶ方法を学ぶところ
「学校で習うことって、大人になって役に立つの?」って話がよくある。
例えば、三角関数を高校卒業後に一生使わない人の方が多いだろう。学校のカリキュラムって、将来10%の人が必要とする内容を広く学ばせて、どれかが役立てばいいね、というように作られているのだと思う。
ただ特に小学生のうちは「何を学ぶか」より、「学ぶ行為そのものを学ぶ」ことの方が本来の目的であるはず。
鎌倉幕府が何年にできたかを覚えることよりも、
- どうやったら覚えられる?
- 興味を持つには?
- 興味がなくてもどうやって割り切る?
みたいな「学ぶスキル」を身につけることが重要だ。
ここで、紙の教科書の特性が活きてくる。
工夫ができる紙の教科書・敷かれたレールの上しか動けないデジタル教科書
紙の教科書は、折り曲げたり、書き込んだり、何かを貼ったりと、印刷会社が想定しない使い方ができる。
でも、デジタル教科書はプログラマーが作ったUX(ユーザー体験)しか得られない。
結局、デジタル教科書は「具体的な対象を学ぶためのツール」であって、「学ぶ方法を学ぶためのツール」としては不向きだったんだろう。
(とはいえ、フィンランドみたいに「これダメだったね」となったらすぐ戻そうとするフットワークの軽さは、教育への本気度の表れかもしれない。)
特に小さいうちは、「どう学ぶか」を試行錯誤できる環境が大事なんだろうな、と改めて思った。
↑ 小学生の頃こんなのを買ってもらった記憶。新装版が出ていた