おいた犬は可愛い
こないだ美容院で髪を切ってもらいながら、美容師さんの話を聞いた。5歳から一緒に暮らしているという愛犬の近況の話だった。
「うちの犬はもう16歳になるんだけれども、最近はほとんどご飯も食べられなくて、点滴だけで栄養をとっている」
「歩くのもヨタヨタで、壁にぶつかっては固まってしまう。何が起きたのか理解できず、フリーズしてしまうの」
「物心ついた時から一緒に生きてきて、子どもの頃一緒に走り回った思い出があるのでやっぱり寂しいんだけれども、、壁にぶつかって何が起きたのか分からず止まっている姿も可愛い」
といったような内容。
「老い」はどう見えるか
その話を聞きながら、ふと思った。「できない」という姿は、可愛らしさを感じさせることがある。
赤ちゃんは、何もできない無力な姿が「可愛い」とされる。ミルクをこぼすのも、うまく歩けないのも、全部ひっくるめて愛おしい。 犬や猫が「失敗」している動画もネットの人気コンテンツである。
歳をとるということは、動物にとっても人間にとっても、「できていたことが、できなくなっていく」という変化の連続だ。
でも人間が歳をとって、歩けなくなったり、言葉が出てこなくなったりすると、「大変だ」「辛い」「目を背けたくなる」といった感情の方が前に出てくる。
子育てと介護の違い
子育ては確かに大変だけど、同時にそこには「楽しさ」や「喜び」がついてくる。 無力な存在を育てることが、人生のハイライトにもなりうる。一方で、介護はどうか。 老いていく人と過ごす時間は、なぜあんなにも重たく感じられるのだろう。
もちろん、体力的にも精神的にも介護は辛いことだろうと思う。 でもそれだけじゃなく、もっと根っこのところで、「老いた姿そのもの」に対する、無意識の抵抗感があるんじゃないかと思う。
見た目、匂い、声、肌の質感。若いものには自然と好意が向きやすいけれど、歳を重ねた人間は本能的に忌避感がある。 文明化以前、人間がまだ群れとして生きていた動物の頃には、あまり群れに貢献する存在ではなかっただろうし、何より自分の未来の姿が透けて見る気がする。
↑の本には、人間が「美しい」と感じる風景は人間の生存に適した環境であると書いてあった。 子孫を残すのに適した異性を美しいと感じたり、食料が確保しやすく捕食者に気付きやすい場所の景色を美しいと感じる傾向があるらしい。
犬が老いても可愛さが残るのは、やはり人間ではないからじゃないだろうか。
服に現れる「できなさ」をめぐるまなざしの違い
こうしたまなざしの差は、身につける服にも表れているように思える。 赤ちゃんの服は、明るくて柔らかくて、見ているだけで楽しくなるようなものが多い。
対して、介護の服は実用性重視で、あまり楽しくなるようなデザインはあまり見かけない。 老いた人間の処遇には明るい感情など不要とでもいうのだろうか。。
でも、介護の辛さというのを助長するようなことをわざわざする必要ってあるのか?と思う。
もし、介護対象が愛玩動物くらい可愛く見せることができたら、介護の辛さも軽減されて仕事のイメージも変わるんじゃないかという気がする。 流石に着ぐるみを着せるとか猫耳カチューシャをつけてみるくらいでは変わらないだろうが、、なんかないのかなと思う。
80年生きてきて、自分の意思と反して着ぐるみを着せられるのはちょっと恥ずかしいかもしれない。 けど、それで自分を介護してくれる人がより優しくなるんだったらされる側にも悪い話じゃないと思うのだけれども。