途中まで書いてあったけどオチがなく塩漬けになっていた記事を投稿。 この記事自体にオチがないのは相変わらずなのだが、次の記事で触れたくなったから、自分的には未完だけどアップしちゃう。
かつて、三社祭など浅草・入谷・日暮里近辺の祭りをみて感じたことを記事に書いた。
この記事を書いたころはブログタイトルにもある通り東京の荒川区、日暮里あたりに住んでいた。 なので祭りといえば三社祭や小野照崎神社の祭りに代表される神社の祭りだった。
実は今、ブログタイトルを裏切りすこし郊外に引っ越してしまっている。 近所で有名なものとしてはららぽーとTOKYO-BAYなどがある、千葉の臨海部のほう。
そろそろここいらに引っ越してきて一年ほど経つけれども、ひとつ感じている違いとしては、祭りのありかたというものがある。
漂白された祭り
今住んでいるあたりの祭りは、宗教施設に根ざさないものが主流になっている。 得体の知れないテキヤはおらず、キッチンカーや地元住民のボランティアが出店している。
その担い手は、例えばTMOと呼ばれるものに近い団体だったり
例)奏の杜夏祭り
地方自治体だったり
例)習志野市民まつり 習志野きらっと
民間企業だったり
例)WOW FES
といったもの。
神社がメインの祭りもあったのだが、ほぼ神社の境内で閉じた小規模なもので、マイナーな方になるだろう。 いちおう神輿や山車が近所を練り歩いたりはするが、三社祭の時期の浅草周辺のように街全体が祭りモードという感じにはならない。
祭り会場の中だけが祭り空間になる。
祭りを巡る権力構造の想像
習志野きらっと、はおそらく市役所や後援企業のホワイトカラー労働者が主導し、合理的に出展者を決めて交渉してできあがっているのだろうと思う。 祭りの中の権力構造が、委譲元をたどっていけば日本国憲法にたどりつく、法の支配を受けていそうな祭りだと思う。
いっぽうで東京下町の祭りは独自のルールが働いている。 男性の長老が(おそらく年長であるというだけで)大きい顔をしているし、どうしたら新規出店ができるかわからない怪しげなテキヤが立ち並ぶ。 神輿の担ぎ手もいまは「祭好会」などとよばれる金をもらって担ぐ集団がいるそうだが、その金のやり取りは帳簿にのっているのだろうか。
そういった疑問を持つことを「野暮」で片付けてしまう、本質的な反社会性を秘めているのかもしれない。
子どもを連れていくのにはもちろん後者のほうが安心なのではあるが、得体の知れない屋台で買ったシャーピンの味が懐かしくなることもある。