
東大の暦本先生が退官し、その最終講義の内容が記事になっていた。
HCIのパラダイムシフト
東大のHCIの先生たちの思い出
東大にインターフェース分野の有名な先生として、暦本先生と五十嵐先生という二人がいる。(暦本先生は退官されたので、「いた」かもしれない。)
※僕が学生時代に知っていた範囲の話なので、今も昔ももっと多くの先生がいるはずだ。
二人の授業はどちらも受けたことがある。とはいえ、講義を聞いてレポートを出したくらいなので、大したことは言えないのだが。
先の最終講義で取り上げられていた問いを見て、思い出したことがある。
「なぜ私たちは今、チャットUIという『テキスト入力』に先祖返りしているのか?」
暦本先生ではなく、五十嵐先生の授業のほうだったと思う。レポート課題は、「10年後のコンピューターインターフェースを考えよ」のような内容だった。
それに対して自分は、こんなハスった答えを書いた覚えがある。 (ハスった=斜に構えた)
「10年後には、“コンピューター”を使いこなせない人は少なくなっているはずだ。だから、その人たち向けの新しいインターフェースをわざわざ作る必要はない。やりたいことをチャットで送ると、クラウドワーカーが作業を代行し、結果を返してくれる。そういうものこそ未来のインターフェースではないか」
当時はシステム創成の自分は情報理工の優秀な学生たちに圧倒されて、苦し紛れに書いた案だった。 けど今振り返ると、未来を言い当てたと言えるかもしれないと自画自賛してみる。
Copilotや各種AIエージェントがやっていることは、まさにそれに近い。違うのは、裏側にいるのがクラウドワーカーではなくAIになったというところ。
人はコンピューターとインタラクションしなくなる
これまでのHCIは、人間がまず「何をしたいか」を考え、そのためにコンピューターへ何をさせるべきかを手順に落とし込み、命令として伝える。その指示を、いかに速く、正確に、気持ちよく伝えられるかを追求してきた。 しかし人間が「何をしたいか」という意図を伝えれば、そのためにコンピューター側で何をすべきかはコンピューターが自分で考えてくれるようになった。
コンピューターに比べれば、人間は圧倒的に考えるのが遅い。 人間が考える量をそのままに、指示の入力だけを効率化するより、そもそも考える仕事そのものをコンピューター側へ移していくほうが効率が上がるに決まっている。
人がコンピューターを操作する際に起きていることは、人とコンピューターのインタラクションではなく、人とコンピューターの中にいる「人もどき」とのインタラクションへ変わりつつある。
人と話すとき、相手を指で押したりつまんだりはしない。そう考えると、これからコンピューターとやり取りする手段も、ボタンやマウスではなく、言葉と絵に近づいていくのだろう。
マイク(音声で文字入力する)、カメラ(光景を見せる)、タッチディスプレイ(絵を描く、画面に注釈を入れる)。入力手段は、そのあたりへ集約されていきそうだ。
絶滅していくインターフェース
“デジタル”であろうとした黎明期のデジタルカメラたち
先日、営業先の近くに「絶滅メディア博物館」という施設があったので立ち寄ってみた。
アナログなフィルムカメラやタイプライターから、ビデオやカセットテープ、CD/MD、古いPC、携帯電話、PDAまで。「絶滅」したメディアや、それに関わる機材が展示されている。

そこには、我が家で初めて買ったSONYのデジタルカメラも展示されていた。
今見るとかなり変わった形をしている。昔のデジカメには、今見ると不思議な形のものが多かった気がする。

昔のデジタルカメラに比べると、今のデジタルカメラはフォルムも操作系も、むしろアナログ時代に近づいているように見える。
しかし、いわゆるカメラの形状は、そもそも人体の都合で作られたものではない。
ファインダーはなぜ光軸とずれてペンタ部にあるのか。
なぜ顔の近くまで腕を上げると手首は上を向くのに、グリップは水平前向きなのか。
昔は、レンズから取り込んだ光を光学的にファインダーへ映す必要があった。ロールフィルムを格納し、巻き上げる必要もあった。あの形は、人間のためというより、機械側の制約から生まれたものだった。
黎明期のデジタルカメラには、そうした制約から解放されたことで、新しい形を探ろうとする意志があったように思う。
現在ではさらにデジタル化が進み、ファインダーもEVFになり、バッテリーも小型になった。それなのに、なぜ形は先祖返りしているのか。ずっと不思議だった。
「写真家」の仲間入りができる形状
そんなときに暦本先生の記事を読み、デジタルカメラの形状回帰は、暦本先生の言う「4. エフィカシー(自己効力感)」を先取りしていたのではないかと思った。
写真を撮るだけなら、いまやスマホで十分な場面が多い。
だから単体のカメラを買う行為は、実用品の選択というより、趣味の選択になっている。

そこで求められるのは、最初から使いこなせることではない。少しずつ使いこなせるようになるという成長体験なのだと思う。
そのためには、いかにもカメラらしい形をしていて、昔からの写真文化の延長線上にいる感覚を与えてくれることが大事なのかもしれない。
※ただ、その一方で中身のほうは圧倒的に進化している。被写体自動認識AF、プロキャプチャー、シンクロ手ブレ補正など、技術的な部分はカメラ側が「いい感じにしてくれる」度合いを増している。
なぜ未来の道具は昔の顔をしているのか
という問いに戻ると、これまでの「デジタルな道具たち」は、コンピューターや機械に対して手続き的な指示を与えるために進化してきたのだと思う。 しかし私たちはその手続きそのものではなく、本来伝えたかった「意図」を直接渡せるようになってきている。
だとすれば、“デジタルであろう”としてきた入力機器の進化は、少しずつ役目を終えつつあるのかもしれない。
本体を持っていないゲーム機のコントローラーだけ収集していた時代もあるくらいデジタルな入力機器たちに惹かれてきた自分としては、少し寂しさもある。 けれども、大人としては現実に向き合っていかないといけないなぁ、と思った。
