BOY MEETS GIRL

漫画と小説、しばし小説のほうが「高尚な」娯楽で漫画の方は「低俗な」娯楽であるとされる。
漫画だから低級、小説だから高級ということは言えないと思うが、自分もどちらかといえば漫画のほうが低級な作品が多いように思う。「高尚」「低俗」といった価値判断を含めた言葉を使わずに高級/低級と言い換えたのは高級=高尚でも低級=低俗でもないからだと思うからだ。どこの時点で「快」を感じるかの違いにすぎないといいたいのである。
(ここでいう「低級」とは、ジョルジュ・バタイユの言う「低い唯物論」とかで使われている「低さ」と同じだと考えていいだろう。)

小説というものは、挿絵が付いているものもあるが基本的には純粋に記号的なものである。小説を読むというのは、文字という記号を眺めて、それを音声という記号に頭のなかで変換し音声言語の代理物と認知してさらにそれを意味を与えられた記号だと解釈してその意味するところを恣意的に解釈していくプロセスである。
一方の漫画は、絵がついているので視覚的・直接的な働きかけをうけることになる。このことによって漫画のほうがより官能に働きかける作用が強いということだ。したがって、漫画のほうが小説よりも人間の低級な=動物的な部分で「快」を感じさせやすい性質を持っている。

簡単にいえば、人間の原始的(↔社会的?)欲望は、文章よりも絵で書いたほうが伝わってくるのだ。

ステーキというものを今まで食べた記憶がないんだけど、
これを見るとちょっと食べてみたくなる。
           

 このようなメディアの特質から、漫画に低級な作品が多いというのは考えてみれば当然のことである。

 
ということから考えれば、エロ-漫画というのはまさしく生まれるべきして生まれたものであるということは明らかだ。世の中には官能小説というものもあるが、漫画に比べると見かける機会も少ないし話題に上がることもほぼない。(読者の年齢層の違いもあるのかもしれないが)
ちなみに、最近見つけた中では胃之上奇嘉郎がいいですね。
 
しかし、世の中には低みに向かっていくはずのエロ漫画でありながら、ムーンサルトして高い領域へと踏み込んでしまったものが存在する。それが「バキ SAGA」である。
これを見るだけでトラウマがよみがえる人もいるのでは?
バキSAGAは、残念ながら正当な評価を得ていないと思う。ネットで公開されている感想文を見ても
だいたいがこれを笑いものにしているだけだ。
確かに、梢江はまっったく可愛くないと思う。どうでもいいが板垣絵でも、グラップラー刃牙の単行本のどれかに収録されている読み切り「メイカー」の子は変身後がわりとかわいい。
 
しかし、だからこそ雑念にとらわれずに「この漫画で伝えたかったこと」に「人間」(≠動物)として向き合うことができるのではないだろうか。これがもしもっといい感じの絵柄だったら、内容にこれほど集中できないんではないだろうか。
 
巻頭言から作者の言葉を引用すると、
要は愛ですよね。
人間が何か行動するにあたって。
性欲ってでっかいって俺思ってたんだ。
でも俺が描きたかったのは、性欲の向こう側。
性欲ってものがなくなって。
そこにあたかも結晶のように残るもの。
それが愛だろうということ。

 とある。

一旦は低級な性欲という「呪われた部分」に真正面から向き合うことによって、「愛」という高級なもの本質に迫ろうとした作品なのである。

近代社会に生きる我々は、自分たち人間を高級な存在だと考えたがる。愛という「高尚な」ものの背後に性欲が潜んでいるということは、隠さねばならぬことであり、語るべきではない事象なのだ。
しかし、そんな姿勢でいくら「愛」を論じようとただ空虚なものにすぎない。基礎のない言葉をこねくり回していても、辞書の上で終わらないダンスを踊っているようなものだ。

SAGAにかぎらず、バキシリーズは強さや力といった普段何の気なしに使っている言葉の本質に迫ろうとする勢いがある。そして、それらの作者なりの答えは大なり小なり「身体」の問題に関わっているように感じる。

拙ブログで何回か取り上げた気がする田中純先生の『政治の美学』で、「身体甲冑」という言葉が紹介されている。身体甲冑とはどのようなものかは、以下の様な引用から伝わるだろう。

テーヴェライトは、兵士的男性の自我は、体罰を与える両親や教師、軍隊内などでの上下関係に基づく『しごき』といった外部の審級が加える攻撃による苦痛ゆえに、身体表面へと外側から皮膜のように被せられたのだ、という。身体への懲罰が身体表面という境界の実例を示し、その結果として、一種の甲冑が彼らの皮膚を覆う。身体のこの甲冑こそは兵士的男性の自我なのである。(p64)

とか、

拷問における鞭打つものと鞭打たれるものとの関係について、テーヴェライトは「打たれる側は輪郭をなくしていくのに対し、打つ側は輪郭を得る」と分析する。虐待者は他者を肉の塊に化すことによって、自分は逆に全身を包む甲冑を手に入れ、おのれの身体を維持する。言い換えれば、虐待することなしには。虐待者は身体の断片化から身を守ることができない。彼は自己維持のためにそれを強いられるのである。(p68)

とか。

身体甲冑というのは物理的なものではなくて、精神的な「自我」の境界にあるものだ。
(余談だけど、僕は鞭打たれたことないのでなんともいえないが鞭打たれるというのはむしろ「痛み」を「身体の表面」で感じることでよりいっそう身体の境界を強く意識するようになるようなきがするんだけど、どうなんだろう。打たれる瞬間に強い痛みを感じ身体表面を意識させられる一方でそれ以外のときは反動で境界感覚が希薄になるということなのだろうか。)

放っておけばつかみ所のなくなってしまう『自我』 というものを、痛みを与え、痛みを受けることで確信的に維持しようという行為によって形成されるものだといってよいだろう。
つまり、闘いというのは痛みを与えあることによってお互いをお互いであると確信させあうこと、つまりより「身体甲冑」を強化していく行為にほかならない。

バキSAGA内では、闘いとセックスはそっくりだ!ということが語られる。前者では相手の「嫌がる」をし、後者では反対に相手の「喜ぶ」ことをすればよい。両者ともに相手のことをよく観察し、相手のことをよく考えることが必要になる。

そして、直接は語られていないがもうひとついえることがある。
闘いはお互いの境界を強化することを目指し、セックスはお互いの境界を溶かすことを目的とする。しかし一方では、闘いのあとでより友情が深まるだとか「小さな死=オーガズム」のあとで自我に引き戻されたりするわけだし、自我の境界は闘いでもセックスでも強められたり弱められたり、激しく動揺する。んだろう。経験したことないけど。
刃牙がいうようにそっくりであるかは別だとして、闘いとセックスは自我の境界を巡る同じ軸の上でもつれ合い渾然一体となっているものであるということは確かに言えるのではないだろうか。(理系としてこういう文章はどうなの?)

いろんな人の感想文を読んできたが、刃牙の「格闘とセックスはッッ そっくりだ!!」発言は大体ネタあつかいされており、あまり賛同者はいないようだ。
しかし、先入観を捨ててバキSAGAをじっくり読みこめば、この主張はあながち荒唐無稽なものだとは思えなくなってくるだろう。(経験者に意見を聞きたい)

まだバキ本編すら読んだことないよという方もいるだろうが、そういう人はまずこの「バキSAGA」から入ってみてはいかがだろうか。

Amazonのレビューより。
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