刃牙は唯の格闘漫画…そんなふうに考えていた時期が俺にもありました (下)

(続き)

勇次郎が刃牙を「最強」と認めた時点で刃牙は勇次郎の最強認定を拒否するという我儘を通す力を得た。しかし最強認定を拒否するということは範馬勇次郎が最強だと認めることになり、刃牙には勇次郎の最強認定を拒否することはできなくなる。

本日『<法>と<法外なもの>』という本を借りて読み始めたのだが、範馬勇次郎はまさしく<法外なもの>である。


  

法を宣言する正当性は、その法によってしか合理的に保証され得ない。なのでどんな理性的な法であっても、その根源は超越論に頼らざるをえないのである。(『暴力批判論』で言及される、チェスを指す自動人形の中にに潜む「せむしの小人」はそういう意味だったのか!)今になってようやく「政治神学」という言葉の意味を理解した。
法体系は自己言及的なサイクルにすぎないので、どこかに「クッションの綴じ目」を作らないといけない。その針を動かすのは力なのである。

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昔「自衛隊は暴力装置」という発言が物議をかもしたが、唯一合法的に暴力を行使できるものが国家であり、国家の根源は暴力なのである。(だから自衛隊、警察はまごうことなく暴力装置である。あれで騒いでたのは「オマワリサンは正義の味方」みたいな子どもじみた世界観から抜け切れていない連中なのであろう。)
作中範馬勇次郎がアメリカ合衆国と対等な存在であることが明らかにされるが、あれは範馬勇次郎が特権的な暴力を行使可能な前国家状態であることを示している。

ピクル編終了後の迷走
けっこう好きです


「グ ラップラー刃牙」時代は単に強い人だった勇次郎だが、「範馬刃牙」のころにはもはや人間ではない。そして一国の軍事力に対抗可能な腕力を持ち、法の外部に 身を置いている。近代国家はその成員が「理性的な人間」であることを前提としているが、それにくわえてもう一つ、「集団的な暴力にまさる個人」の不存在も 前提にしていると言って良い。これはまぁ現実には決して起こりえないだろう、「まともな人」にとっては考える意味も無い例外すぎる例外状態なわけだが、範馬勇次郎は近代国家の成立を根幹から 揺るがすPharmaconなのである。

「勇次郎と並ぶ強さ」という触れ込みで登場したガイア、オリバ、ゲバルの三人がそれぞれ国家権力の犬である自衛官、刑務所内限定での最自由、新しい国家の創設者で あるというのも興味深い。
特にゲバルはどうしても影が薄いという印象を拭い切れないが、暴力によって<アメリカ合衆国の法>を超え自ら新しい国 家=法秩序をうちたてているというところがただただ暴力を行使するのみである勇次郎と好対照だ。ちょっともう一度暴力批判論を読み直さないといけないが、 勇次郎とゲバルで神的暴力と神話的暴力の対比になっているような気がする。

か つて何かのインタヴューで板垣先生がニーチェについて言及しているのをみたことがあるのだが、「範馬刃牙」を執筆中はベンヤミンの「暴力批判論」とかC. シュミットの「政治神学」、デリダの「法の力」等に影響されていたのではないだろうか?もしこれらの影響を受けていなかったとしても、独力であの物語をあみだしたとしたらまさに鬼才だと思う。
そういえば板垣先生はこんな本のカバーイラストを描いてたりする。↓

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連載は追わない主義なので「刃牙道」はまだ未読なんだけど、「範馬刃牙」を超えて範馬勇次郎がどう進化しているのか、大いに期待だ。