ディズニーランド

数年前、ディズニーランドのCMにこういうのがあったのを覚えているだろうか。



ちなみに、ディズニーランドについて調べていたらこういう連載があったので紹介。

  

・わたしたちはなぜディズニーランドへゆくのか――遊園地の政治学  長谷川 一
第1回 舞浜ゆめのの夢の国
第2回 「物語」をめぐる内と外と世界の果て
第3回 ディズニーランド化した日常?
第4回「外部」と「俯瞰」と不在の観覧車
第5回ゴンドラから再浸透する視線
第6回 「他者の視線」と「非日常」の果て


本題とはまったく関係ないのだが、「夢の国」という表現の妥当性は一度検討してみたい。 この表現には、単に楽しいことの広がっている土地という意味ではなくより重要な意味が込められている気がする。
それと、「生産」が抜け落ちているというところは郊外のショッピングモールにも共通してる。

僕自身は最後にディズニーランドのほうを訪れたのはもう10年以上前(当時だったら「ボードリヤール?バリヤードの進化系かな?」みたいな感じだろうか)、ディズニーシーのほうは一度も訪れたことがないのでこの「舞浜ゆめの」と共有する世界観を持っておらず、全くこれを見て「よっしゃ、ディズニーいくでよ!」とはならないんだけれども、この30秒の映像作品には妙に惹かれるものが有る。

この映像をみて、「リア充死ね」的な感想を持つ人を見たことがあるけれども、むしろこの映像は見る男性に対して優越感を抱かせる作りになっていると思う。
ゆめのの将来の配偶者となる匿名の男が登場するのは10秒を超えたあたり。ラストの5秒は「舞浜ゆめのの物語」ではないので、この時点ですでに全時間の1/3以上が経過している。その後前編にわたって登場しているのが同じ人とは限らないが、(ディズニーの物語を顧みると、おそらく同じであるという設定が妥当なんだろうけれども、「舞浜ゆめの」が夢物語のなかのプリンセスではなく現代資本主義社会に生きる女性であるということを考えればむしろそれでは不自然なのではないだろうか。)どう頑張っても残りの2/3しか時間を共有していないのである。
その点、テレビを通して我々は彼女の人生すべての期間を見ることができる。

大友向けの「幼馴染」や「姉妹」といった属性の魅力を支えているのは、この時間の共有という部分であると思う。(ということは近親相姦でも、母子は異なるメカニズムが背後にある)NTRというのもそうかもしれない。


…とまぁ別にどうでもいい話なのだが、近いうち行くかもしれないのでそのときちゃんと何か書きたいという予告編みたいなものです。