「ドリアン・グレイの肖像」のなかでは、ドリアン・グレイがシビル・ヴェインへの思いを露わにするシーンはこんなかんじだ。
ドリアン「今夜、シビルはイモジェンになる。そして明日はジュリエットだ。」
ヘンリー卿「いつシビル・ヴェインになる?」
ドリアン「ならない」
...(中略)
ドリアン「彼女一人の中に世界中の素晴らしいヒロインが詰まっているんだ。彼女は一人の個人を超えている…」
こんだけ熱い思いを披露してくれるドリアン君だけれども、いざシビルに告白してみるとシビルはあくまで「シビル・ヴェイン」としてその思いを受け止めようとしてしまう。
この対応にドリアンは幻滅し、シビルを自殺へと追い込んでしまう。
つまり、女優は舞台の上でだけ生きる生き物であってほしい、ということだろうか。
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このドリアン・グレイの俳優観というのこそが前近代的な価値観である。
これに対して現代はむしろ「あの岩崎弥太郎をやった後に大和田常務をやった香川照之が東進のパクリみたいなサービスのCMに出てる!」みたいなのを楽しむ時代になっている。
(少し昔の「アイドル」は前近代的な臭いのする文化だったように見える。僕はアイドル時代あんまり興味がないんだけれども、現代的な「身近さ」を売りにするアイドルはなんの意味があるのかわからない。実物のみならず、そういう「アイドルを目指す女の子」をテーマにした漫画やアニメがいくつかあるけれども、気持ち悪いなぁと思う。)
現代のドラマでは一応役名こそ付いているものの、役名はそれほど重要ではない。「マッサン」でいうと「もし玉山鉄二が明治時代に生まれてウイスキーづくりをしていたら」という現実のパラレルワールドを覗くというのがドラマの楽しさであるように感じている。よくドラマや映画の監督が「配役を決める際に<俳優名>さんが......な<役名>のイメージにピッタリだったので起用することにしました」と言っているけれども、オーディションでまったく無名の誰かを連れてきてるような場合でもない限り<俳優名>のもつ記号性を<役名>に宿らせるという意味合いのほうが強いだろう。
(ウェイクという車のCMは「マッサン」ありきだろう。マッサン以前の「ジャッジ!」という映画で、玉山鉄二ができる夫みたいな役回りで出ていてそれが面白かった。)
近代の視線は窃視的なのだ |
台北にいるときに偶然「ラッキーセブン」という日本ドラマをやっているのを見たんだけれども、そのなかで大泉洋が「何度かパイ生地腐らせたことあるんですよ」というセリフを言っていた。これは単なるパロディといえばそうなのかもしれないが、これが可能になるのは大泉洋がドラマの役を演じつつ大泉洋でもあるからである。
最近チバテレビでマレーシア編が放送開始されましたね |
現代のタレントは何かを演じるのみならず、そのタレント本人としてもスクリーンに現れる。このことによってタレントの個人名はたんなる結束バンドではなく、もろもろの役=記号の結節点となるのだ。つまり「大泉洋」の個人名は第一にタレント大泉洋であり、なお各ドラマにおいては救急救命医であり、ワイン農家であり、探偵でもあるという二重性を持っているのである。
(続く)