ゲーミフィケーションされる消費

とりあえずまずゲーミフィケーションというものについて考えてみる。

komugi.jp

こちらのページで引用されているゲーミフィケーションの第一人者? であるジェーン・マクゴニガルという人によれば、ゲーミフィケーションの四要素は

  • 徹底した楽観性
  • ソーシャル性
  • 疎外されていない労働
  • 物語性

であるという。(引用した日本語サイトの訳は良くないと感じたので自分で意訳)

でも、僕の考えるゲーミフィケーションの本質は「条件を満たしたら褒められること」である。

テストで良い点を取れば褒められる子供じゃない限り、ふだん条件をクリアしただけで褒められることはそうない。誰かに喜んでもらおうと思ったら、まず何をしたら喜んでもらえるかを考えるところから始めないといけない。

でも、ゲームは「これをやったら褒めてあげるよ」というのが事前に示されていて、そしてそれをクリアしたら褒めてもらえる。なんてすばらしい世界なんだろう。

いきなり本題からちょっとそれるけれども、ゲームが今ほどゲーミフィケーションされたのはいつなんだろうか。 最近のゲームはSteamやらPSトロフィーやら、ゲームの世界観とは関係なく「こんなことしたら1個バッジがもらえます」みたいな制度がある。昔のFFにも宝箱回収率、みたいなやりこみ指標は存在していた。それが進化したのがトロフィーだろうか。

僕のやっていたCoDシリーズにもそういうのがあった。まぁ「難易度ベテランでキャンペーンクリア」みたいなのがあるのはいいんだけど、「手榴弾1つで4人同時に倒す」とか「1ステージ中ナイフで10人倒す」みたいなゲームの本筋と一切関係ないものも多い。

昔から経験値を貯めるとレベルがあがる、レベルが上がると強い敵を倒せる、強い敵を倒すと物語を先に進められる…といった形で「条件を満たしたら報酬」という仕組みは存在している。(というかそれがゲームだし) でも、昨今の「トロフィー」のように単発で細かく報酬が得られるっていう仕組みがゲームで一般的になったのは最近のことのように思う。

さて、余談はこれくらいにして本題に入る。

「ほしいものが、ほしいわ」という言葉で表されるように、近代社会は「自分らしさ」をマスプロダクトで表現するという倒錯した世界である。 既製品をどうコレクションするか、が個性なのである。 我々のまわりには物が溢れているようでいて、我々は常に物を欠乏している。

こんな世界に対するこれまでのアプローチのしかたが、世界観を提供することであった。 結局買うのはマスプロ品だとはいえ、このような世界ではまだ選択肢がある。ブランドが提供するロールモデルがあって、それを適宜取捨選択しながら既製品の個性を身に着けていくのだ。 人は個性的でなければならないという観念があったためか、個性を持とうとすることが正常な欲望をもっていることを示していた、ということなのだろうか…。

でも、最近のアプローチは世界観をともなわないものになってきているように感じる。 それを特に感じるのが、フォトジェニック消費である。 カラフルなわたあめとかナイトプールとか、なんら世界観を構成するものではない。 そういう流行ひとつひとつは個別に存在しており、お互いに関連をもつものではない。 それらをひとつひとつ消費し、インスタにアップすることで「実績」を解除していくかのような消費スタイルが生まれていると感じる。

ここでは、もう他人と違うものを求める必要がない。 外から達成すべき事項のリストがやってきて、それをこなしていくことが正しい欲望のありかたとなりつつあるんじゃないだろうか。 フォトジェニック消費の特徴は、価値の多様性があまりなさそうなところ。個性的はあまり存在せず、個人個人は一元的に判断される「オシャレ度」「リア充度」ではかられる。

インスタグラムは「セルフブランディングのためのSNS」といわれることがあるが、ぼくはどうも「ブランディング」という言葉は不適なのではないかとおもうわけです。強いて言うなら、「マウンティングのためのSNS」だろうか…。

いいか悪いかは、それぞれ思う所あるでしょうけどね。