最近、財布を買おうと思ってる。特に、ボッテガ・ヴェネタの財布を買おうかなぁと思っている。
あみあみ |
実物は見てきたけれども、財布自体は特段いいわけでもない。あの編み編みデザインもこだわりは感じるけれども、好みかといわれたら微妙。
ではなぜボッテガ・ヴェネタなのか?それは2年前の経験が理由だ。
ちょうど今から2年前、ヴェネチアに行った。そこで遅い時間に散歩していたら、ボッテガ・ヴェネタの路面店があった。(すごい狭い路地だった)すでに営業時間外だったんだけれども、そのショーウィンドウに怪しく照らしだされたブライス人形が佇んでいた。
闇の中にこれがいると想像して |
まー相当不気味だったんだけれども、一方で魅惑的であるとも感じたのも事実。そのイメージはいまでも鮮烈に頭に残っている。この経験があって、自分にとってボッテガ・ヴェネタというブランドのイメージは「そういう」イメージなのだ。
だから自分もボッテガ・ヴェネタのアイテムを身にまとうことで、「そのイメージ」を自分にもまとわせることができるのではないかと考えるわけである。
(僕はルイ・ヴィトンのものが欲しいと思ったことはないが、ルイ・ヴィトンの財布を持っている人よりボッテガ・ヴェネタの財布を持っている人のほうが「我を持ってる」感じがしません?)
「ブランドもの」って昔は意味がよくわからなかった。でも、そのものを持つだけでそのブランドの持つイメージを自分に感染させることができるなんてそんな便利なものはないなと思うようになった。
べつにこれはファッションに限らない。ヨーロピアンなセンスを持ち合わせているイメージのためにシトロエンの車に乗るとか、デジタル系に詳しそうなイメージのためにZenphoneを使うとかいろいろな領域で応用可能だ。(例として適切かな?)
この消費社会では、「個性」は何を消費するかという編成でしか表現することができない。その点では真の意味の「個性」なんてものは成立しないわけだが…。
でも裏を返して言えば、消費活動をすることだけで「なりたい自分」を表現できるってそれはそれで良い時代なんじゃないの?と思う。
われわれ人類は言葉を手に入れてしまったおかげで、「ほんとうの現実」に触れることができなくなった。そして、記号という亡霊に取り憑かれて生きるしかない。
であれば、その亡霊とともに楽しく踊りながら生きる道を探すしかないのだ。