デジタル技術が「それとなさ」を実装するには

そろそろ、デジタル技術はアンビエントな情報提示ができるようになる必要がある。

いまだに紙が使われる領域

ホテルや旅館に泊まるときに、館内施設や食事の案内はいまだに紙でもらうことが多い。 今の時代、こんなの紙でわざわざ渡す必要はなくてQRコードをその場で読み取らせて、情報を見せるためのページを開かせれば用はすむなとは思う。 一方で、自分はそれでいいとしてもその仕組みがうまくワークしなさそうなことはなんとなく予想がつく。

もちろんとくに年齢が高い世代はスマホ自体が苦手といったような通り一遍的な理由はあるだろうけれども、もっと深い理由があるのではないかと、紙をもらうたびに思っていた。 その理由が、わかったような気がする。

分類しないといけない

「オブジェクト指向」の根底にも関わってきそうな思想だが、デジタルなデータは「型」が決まっていて、それに対する操作が定められている。 画像ファイルは画像閲覧ソフトでしか開けないし、音楽プレイヤーソフトで開くことはできない。その逆も然り。 さらに置き場所によっても扱いは異なる。DCIMディレクトリに入っている画像は画像閲覧ソフトの中でも写真管理ソフトで開かれ、COMICディレクトリに入っている画像は漫画ビューアで開く。

ちょっと自分はiPhoneを長年使っていないので記憶の中でだが、iPhoneはさらに酷くてディレクトリ構造をユーザーは意識できず、アプリごとにデータが管理されていたように思う。(カメラロールを除く)

一方で、アナログな情報はそうではない。 紙に書かれた情報はもちろん情報として管理することもできるし、そんなものは無視して紙飛行機にして飛ばしたって良い。

だから、分類をせずに紙をそこら辺に放り投げておくことができる。 このそれとなく放り投げられた情報は、視野の隅っこにそれとなく目に入り、そういえばチェックアウトいつだっけ?というリマインドを与えてくれる。

うるさいか静かかしかない

デジタル時代の情報は、狭い画面の上に表示される。とくにスマホなんて、広い視野のうちほんの数%の領域しか占めていない。 この中では情報は前面に現れるか、全く見えないかどちらかの状態しかほぼ取りえない。 スマホ時代になって、あらゆるものがホーム画面の20弱の位置を取り合っているとは誰かから聞いた表現だが、この狭いエリアにはそれとなさが存在しない。

プッシュ通知は一つの試みではあると思うが、これは一度「うるさい」全画面のアプリケーションを通して通知設定ができている時点で現実世界のそれとなさの代替にはなっていない。

また、ウィジェットも元が狭い画面で実装してもそれとなさを取り戻すという点では役に立っていないと思う。

近いのは、「スクショ」文化

スマホネイティブ世代では、ブラウザやSNSなどのアプリをまたいで情報を保存・共有するのにスクショが利用されるそうだ。

xtech.nikkei.com

スクショでは、すべての情報は画像の形で、日付順に整理されて並ぶ。検索ではなく、カメラロールを遡っていくことで情報を探すんだそうだ。 情報の種類によらず、かつカメラロールを辿る中でそれとなく過去の情報が目に入るという点で、スクショ文化は「デスクトップ」のような不完全な現実世界のアナロジーよりもデジタルネイティブに新たな情報提示の仕方を示したという新しさがあるかもしれない。

将来的にはスクショではなく、スクショのようにアプリ名と「その時のアプリの状態」をペアにして保存できるということに進化するんじゃないかと思う。その時の画面の様子がサムネイルになってカメラロールのように並び、選ぶとアプリが立ち上がってその時の状態が復元できるという機能はいずれ出てくると予想している。

スクリーニング

WIREDの創刊にかかわったケヴィン・ケリーの「テクニウム」のなかで描かれている未来の姿で、「スクリーニング」というキーワードが挙げられていた。(日本語訳版。原著ではどんな表現なのか不明)

要するにスクリーンがいたるところにある未来なのだが、その未来が実現するとしたら、身の回りにあるスクリーンが協調する必要が出てくる。 デュアルスクリーン・トリプルスクリーンくらいなら人が何を配置するか選べるだろうが、一人のために10枚、20枚のスクリーンがあったとしたら、人がいちいち配置するのはナンセンスである。 視野の中心にあるスクリーンに何を表示するかは今のPCのように人が制御しつつ、それを取り巻くスクリーンにはAIが適度にそれとなく情報を出したり消したりするようになっていくのかなと。