「中世人と権力-「国家なき時代」のルールと駆引」という本

4年くらいまえに、中世における「自力救済」という概念に興味があるというようなことを書いた。

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ずっと頭の片隅にはこの興味は存在していたのだが、インターネットの大海をみていると、このテーマに対してとてもよく当てはまりそうな書籍の存在を発見した。その名も、「中世人と権力-「国家なき時代」のルールと駆引-中世ヨーロッパ万華鏡1」。

本の紹介

この本の原題をはおおむね、「大聖堂の影にいる人々」というような感じで、聖職者や貴族といった目線からしか語られてこなかった中世の人々についての本、であるらしい。 しかし、この第1巻はまだ聖職者や貴族の話が多い。(2巻以降はしらないが、、)

理解としては、中世ヨーロッパ(本書が主に対象としているのは今のドイツあたりにある地域)は同時代の中国のような高度に組織化された国家というものはなく、基本的に土地(とそれに付随する人々)を持っている豪族同士が、個人的なつながりで敵対したり同盟したり、、というものであったようだ。 国王というのも、その豪族グループの議長みたいなもので、他の豪族に対して圧倒的に優位な立場ではない。「助言」という形で介入してくる豪族たちの意向をくんであげなければ支持を失い、反旗を翻されるかもしれない。絶対王政以前の国王とは、ローマ教皇と貴族の間に挟まれた中間管理職のような側面もあったのかもしれない。

裁判のうつりかわり

今我々が当たり前だと思っている近代国家では、その国の主権が及ぶ地域では、合法的な暴力は国家によって独占されている。このため、裁判は単一のルールに則って行われている。 しかし、中世ヨーロッパではいろいろな団体がそれぞれ裁判を行っており、事件の当事者の階級や住んでいるところなど、もろもろの要因でどの裁判を受けるかが異なってくるそうだ。

この本で主に取り上げられるのは、国王が判決を下すような上位の裁判なのだけれども、ここでも面白いなと思うことが。 現代では、裁判は中立の立場から行われるように当事者からは独立した裁判官が裁定を下すことになっている。

しかし中世では、むしろ当事者に近い人達を裁判官(に相当するもの)として選んだのだそうだ。そのほうが、当事者たちのことを理解しているから、だそう。

儀礼

また儀礼的行為の重要性も語られる。

国王が助言に従いながら意思決定をしていかないといけない窮屈な身分だったのは前述のとおりだが、その助言を受ける議論の場では、論理とか合理性ではなく、「うまいことを言う」ことが重視されていたそうだ。

そして、非公開で議論をまとめたあと、公開でその議論を再度繰り返す(結論は同じ)そうだ。そうすると、公開議論を見ているだけで自分もその議論に参加したという気持ちになって、結論に納得されやすくなるのだとか。

この辺は今でも、高度に官僚化されていない組織では普通に残っていそうに思う。テレビで政治討論番組を見るのも、同じようなモチベーションではないだろうか。

現代を相対化する

こういうのを見ると、今の当たり前というのは本当に最近出来上がったものなんだなということを思う。

一億総中流社会とか、日本の家庭像というものもそもそも戦後数十年にしか存在せず、まったく当たり前のものではないし、自動車がある暮らしというのも同様である。

しかし、もっと根本的な警察が万能ではないにせよ治安を守ってくれる、といったようなことも数百年前は全然当たり前のことではないということがわかる。 そう考えたら、ブロックチェーンのコントラクトによって法律がコンピューターのコード化といった今聞いたら技術変調のユートピア思想のようなものも、当たり前になっていく可能性はあるだろう。

歴史から学ぶこと

中世の歴史から学ぶことなんてあるのだろうか?とは思うかもしれないが、なぜ昔のシステムは破綻したのかとか変えることができたのか、とかを知ることは役に立つことがあるように期待している。

前述のような中間管理職の国王が、専制君主になれたのはなぜなのか?というのと、Amazonが小売の世界で一人勝ちしているのはなぜなのか?というのはもしかしたら通じるものもあるかもしれない。