「ドゥルーズの哲学原理」を読んで学生時代を思い出す

最近図書館で借りる本は、仕事からみで勉強したい内容半分、自己啓発本みたいなのを半分といったような具合で読んできた。 あらかじめOPACで見に行く棚のアタリをつけておいて、サクッと帰ってくるみたいな。

↑こういうシリーズとか。

しかし、先日ひさしぶりにゆっくりと図書館をまわる時間があったので最近みていないコーナーを見て回っていたら、よくもわからず哲学書などを頑張って読んでいた学生時代のことを思い出し久しぶりにちょっと読んでみようと思った。

アンチ・オイディプスも千のプラトーも家にあるし、目を通したのは間違いないのだが。。なにか今に生きてるんだろうか?

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

  • 作者:國分 功一郎
  • 発売日: 2013/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

それが、「暇と退屈の倫理学」でおなじみ國分功一郎さんの「ドゥルーズの哲学原理」。

「ドゥルーズの哲学原理」紹介

この本の中では、ドゥルーズ個人の思想と、ドゥルーズ=ガタリの思想が区別され、ドゥルーズ=ガタリではなくドゥルーズが何を考えてきたのかということを説明する。

ドゥルーズは、哲学とは概念に関するもので、何を問題として取り上げるのかという点に哲学の肝があると考えていたようだ。 ただこれは僕の読解なので間違っているかもしれない。気になったら読んでみよう。

この本の終章の方では、ドゥルーズのフーコー論にある程度割かれている。

フーコーは、権力による統治のメカニズムの移り変わりについてのべるが、ドゥルーズは権力側が変化しただけではなく、その権力を可能にした被統治者側の欲望について見る必要がある、という。

権力と欲望の共犯関係

残酷な刑罰を見世物としていた中世の君主権力は、見世物を見に来ることを強制してはいなかった。残酷な刑罰をわざわざ見に来ていたのは一般庶民が自ら望んでであり、みずから望んで見に来て「ああはなりたくないなぁ」と思ってくれるから見世物の刑罰が抑止力として働いていたということになる。なので、人々が残酷な刑罰を見たがるから野蛮な刑罰による支配が成り立っていたということだ。

このことが、権力と人々の欲望が共犯関係にある、と説明される。

同様に、規律訓練型の権力も人々の欲望とむすびついていたはずだ、とも。 封建制による階級の固定性が薄れ、よく学びよく働くことで親より豊かになれる可能性がある、という社会のなかで、これまでよりも豊かに暮らしたいという欲望が、より多くの知識を付け、効率よく働き、他人の生産性を損ねないようベルトコンベアの部品のように働かせる権力と共犯関係にあったということだろうか。

今の時代の権力とはなんだろうか。それは国家による権力ではなくGoogleやAmazon、Netflixによる、リコメンド型の権力ではないだろうか。 次から次へと特定の「方法」の上を進むように情報を与え、他の生き方があるかもしれないという想像力を奪うことで、押し付けられているという感覚すら与えずに我々をコントロールする。 本当はこっちの道に行ってみたいけど、我慢しよう、ではなくこの道しか道が見えないようになっているということだ。

※補足: ほぼ書き終わってから知ったんだけど、「環境管理型権力」という言葉で東浩紀などが同じようなことを言っているようだ。

この権力は、我々のどのような欲望のアレンジメントに対応しているのだろうか。

リコメンド型権力を支える欲望

低成長時代になり、今の「現役」世代は親よりも豊かになることが難しい時代におかれている。

https://www.stat.go.jp/info/today/img/129z4.jpg

リコメンドされるものを疑って、他のものを探してみたところで努力分を上回るリターンは得られないことのほうが多い。 このもとでは、豊かになることを夢見るよりも、次々とやってくるリコメンドに身を委ねていたほうが幸せなのかもしれない。

ルイヴィトンを着てロレックスをはめてランボルギーニを乗り回すことも、インスタグラムやTikTokを眺めているのも、死ぬまでの暇つぶしという点では変わらない…そういう諦めにも近い生き方を望む欲望が、現代の「欲望のアレンジメント」としてリコメンド型権力を支えている。

www.k5trismegistus.me

支配されていることに気づくには

権力による支配があること、それ自体は悪いことではない。 しかし、それを我々が何がおきても当たり前のこととして無批判でいることが危険である。

残酷な権力や規律訓練型権力と違って、現代の権力は、そもそも権力の支配の外側を想像する力を奪うという点で非常にやっかいなものである。 そこから抜け出す可能性を考えるためには、なにができるだろうか。