いい国つくろう鎌倉幕府

「イスラム国は国と名乗っていますが、決して国家ではありません」



  

このような言表をテレビや新聞で良くみる。しかし、これに「国家とは○○という条件をみたしている存在だけを指しており、イスラム国は××であるからして○○を満たしておらず、それゆえに国家ではありません」という解説が続いたのを見たことはない。
国家ではありませんと言ってしまうのは簡単だけれども、無根拠に言い放つ様子は「"得体のしれない迷信を信じていて人殺しを好む野蛮な土人"とは違って理性的で平和を愛する日本国民として言わせてもらえば」といった視座から語られているかのような印象を与えてくれる。

ねんのため言うと、イスラム国を擁護するぞという話ではなく、重大な問題を矮小化※して安心してしまうことが危険なのではないかということである。
※イスラム国が「国家」であるよりも「ただのテロリスト集団」であってくれたほうがなんとなく対処しやすそうでしょ?

中学校の「公民」では国家の三要素は「領土」・「国民」・「主権」ですよ~という風に教えられた。これはおそらく今でも変わっていないだろう。
領土と国民はともかくとして、この定義は結局「じゃあ主権ってなんだよ」という問いになってしまう。そしてこの「主権とはなにか」という問いに対してはろくな解答が与えられていなかったと記憶している。
国家とはなにかという問いを主権とはなにかという問いに変換しただけであって、まったく意味のないすり替えである。

マックス・ウェーバーの「職業としての政治」では「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」という言葉――トロツキーのものであるという――が引用されている。このような「国家=暴力の独占体」考え方の初出がどこにあるか実はしらないんだけれども、この考え方は非常にわかりやすいし、だとうなものだと感じる。まぁ、Gewaltの訳が暴力なのはどうなのかという問題はあるけれども。
まとめると国家とは「その内部において唯一合法的にGewaltを行使でき、そのGewaltを正当性の根源として法体系をうちたて、維持している存在」ということになるだろうか。ポイントとしては、そのGewaltの合法性を担保する法体系はそのGewaltによって措定・維持されているという自己言及性だ。国家の最奥部には、「呪われた部分」が存在しているといってよいだろう。

「イスラム国は国家ではない」と言い張る人びとにとって、はたして国家とはなんなのだろうか。

まず考えられるのは、国際的に国家として承認されていないから国家とは呼べないというものだろう。国際連合に加盟しているとか、どこかの国と国交を結んでいるとか。しかしこれは国家の本質とは全く関係ないと思う。国家とは外部から承認されるものではなく、内部から宣言するものである。

また、いわゆる近代福祉国家のような役割を果たしていないから、という理由もあるだろう。だがこれも本質的なものではない。確かに<近代国家>ではないけれども、<近代国家>だけが国家だけではない。現在において発せられる"国家"という語のの定義が1000年前のものを指す時と現代のものを指す場合で意味が変化するというのなら別だけれども。
実際のところは知らないけれども、イスラム国にはイラクの旧政権時代の役人が参加しており、行政が存在するとかなんとか。ラオウとかサウザーの支配よりは近代国家的なのではないでしょうか。

数年前の「自衛隊は暴力装置」発言が物議をかもしたのは、「平和国家である日本国の根源が暴力であるとは認められない。人権やその他崇高な理念なのである」という考え方が広く浸透しているからだと思う。
イスラム国に対する嫌悪感はこの自国家への素朴な信頼を根底から揺さぶられることに対する不安感が原因になっているような気がしてならない。しかし、この考え方はあまりよろしくないと思う。国家(この場合日本国)に対して不相応な信頼を抱かせているような気がする。
日本人が選挙に行かない理由は「どこに投票しようがどうせ変わらないんでしょ?」という<政治不信>であるとよく言われるが、その裏側には「どこが政権を握ろうがどうせそんなにヤバイことにはならないだろう」という根拠の無い信頼もあるような気がする。

僕はイスラム国は国家であるといっていいと思っている(だからといって仲良くしましょうということではない)んだけれども、イスラム国は国家じゃないという人の国家観を聞いてみたいものである。