世の中には、マナー講師と呼ばれる人々がいる。
この「マナー」文化にはなにか腐ったものを感じるのである。それは、「マナー講師」の自己言及性である。
病院の見舞いには鉢植えを持って行ってはいけない(病院に「根付く」を連想させるから)というのは百歩譲って許すとして※テーブルマナーなんてものは本質的に全く意味が無い。
※でも、こういった「神話作用」は人によって違うものじゃないだろうか。
ナイフとフォークは外側からとっていく、というのを考えてみても、内側から取っていくのと外側からとっていくのは対称であって、どちらでもよいはずである。外側内側交互だろうと外側から一つ飛ばしにとっていくのでもそうだ。(これは少しややこしいか)
では、これを正しいマナーたりえさせているのは一体誰なのだろうか?それはマナー講師なのである。個別のマナー講師というよりは、マナー講師の集団が、である。
マナー講師はある振る舞いAを「マナー講師」としての権威を持ったうえで教えることによって、その振る舞いAをマナーに則った正しい振る舞いとする規範をつくり上げることが出来る。同時に、Aと対立する振る舞いaやαはマナーに則っていない下品な振る舞いという規範も作り上げられる。これが社会に広く流通することで社会全体でマナーが形成される。この規範Aがどうして誕生するのかは忘れ去られている。
次世代のマナー講師はこのマナーを身につけていなければマナー講師にはなれないので、この規範を徹底的にマスターすることになる。こうしてマナーはマナーを司るマナー講師によって作り上げられ、維持されていくのである。
その本質的に意味のない規範をどれだけ身につけているかがその人の社会的な洗練度を示しているわけだ。
どんなに「上品」な食べ方をしようが本質的に食事というのは死体を貪ることにほかならない。(牛乳は違うか)
人間が本来隠したい部分である動物的な本性が現れている瞬間だ。それをお互い見せ合うというのは実はかなり意味深い行動なのかもしれない。カラオケもそうなんだけれども恥ずかしい隠すべき姿をお互いに見せ合うことで紐帯を強めようというもの何じゃないかと思う。
レポートシーズンだったので、長文打つのに少し辟易気味…。