すなわち神聖家族

5月の第二日曜日は我が母校の一大イベント(という割に僕はほぼコミットしてこなかったけど)である運動会というのがある。
で、毎年その日に合わせて同窓会が開かれる。

で、1991年度生まれで22歳、または23歳、このあたりの年齢になってくると当然ながら彼女や彼氏の一人や二人がいるというのが世間的にはむしろ一般的なんでしょうな。
しかし、おそらく日本全体の平均から見ればかなり外れ値の集団であるということもあって、それが二極化しているという状況。

僕がどちらの「極」に属しているかはご想像におまかせするが、自分がが胸を高鳴らせながら「東日暮里第六郵便局」に「駿河屋」名入りの箱に詰まった「薄くて熱い本」を取りに行く間に、それを「現実世界」で体験しているひとがいるのだ、という事実を僕は黒船から出てきた「異人」を眺める江戸時代の町人みたいな心境で眺めていた、ということは言っておく。
(局留めにするときはこの郵便局。東日暮里~といいつつ三河島駅が最寄りなのだが、上野からたった2駅なのにものすごい「常磐線」感がするのな、三河島。)

僕はまぁ友達と旅行に行くと2日か3日目くらいから「こいつ鼾でかくね?」とか「こいつ地図見るの下手だな」とか悪い面ばかりが見えてきてしまう性格なので、仮にそういう自体になってもお互い不幸なことになるような気がする。

しかし、思うんだけどこの一対一の配偶関係というのは不自然じゃあないでしょうか?

父親・母親というのは生物の生殖の仕組みからどうしても一人につき一人づつである。
育ての親、という表現があるが、どう頑張っても愛情を注ぐだけでは遺伝的な影響をあたえることはできない。
しかし、配偶者というのは別に何人いようがまったく構わないのではないだろうか。
さすがに人間以外まで考えだすとどう財産を分配すればいいのかわからなくなってきてしまうのでそこは諦めざるを得ないが、性別や人数というのを制限するというのは意味があるのだろうか?

よく、同性愛について「自然の原理に反している、オカシイゾ!」という人がいるけど、一対一のつがいが(理念として)生涯添い遂げる、なんていう形態をとる種なんてそんないるんだろうか。
昆虫を飼っていると割と頻繁に同性同士で交尾をするらしいが、是非一度一対一の夫婦がずっと続く種と同性愛行為を行う種の数の比較をしてみて欲しい。

結婚制度というのは、単に財産分配のために作られたルールにすぎないんだというのは前にも書いたよな気がするが、その考えは今でも変わっていない。
そんなものに変な倫理的であったり美的であったりの意味を与えてしまっていることで、社会に規模こそ大きくないかもしれないが、浅からぬ歪みを与えてしまっているような気がする。

最近はイワユル先進国を中心に同性婚を認める国が増えてきたり、同性愛を規制しようという動きがロシアやアフリカであったりすると反対するムーブメントがわきおこる。

最近はこんなこともあった。:任天堂、同性婚できないゲームで謝罪 続編では対応
(そもそもこのゲームで結婚できるっているのが驚きなんだけど。)

しかしまぁ、これは言ってみればひとつ「特例」を増やそうとしているだけの話ではないだろうか。
個人的には、結婚制度だとか嫡出子かそうでないかとかそういうのは全部やめて、遺産の分配は全部一元化した書類(今で言う遺言状) だけで済ませるようにしてしまえばいいんじゃないだろうか。
そうすれば、いろいろな法的地位もなくなって自分で自由に誰にいくら分配するかを決めることができる。例えば「夫Aには10%、夫Bには10%、妻Aには5%、子供Aには15%、子供Bには10%…猫Aには10%、、、というのは無理だから猫Aをめんどうみてくれる人に10%…」みたいな形で。(妻A少ないな。多分子供ABとセットなんだろう)
#ただし、単純にこれだと昔関係があった人に対する分配がされにくくなりそう。

いや、でも自分はやっぱり一人の男と一人の女が愛しあうっていうのが一番いいと思うっす、みたいな人は別にその道を突き進めばいいのである。
でも、自分が最も美しいと思うからといってそれを他人に押し付けていいかは別問題だ。
自分の感覚、多数派の感覚が「当然あるべきもの」で「正常」なのだ、という考えに凝り固まらずに、マイノリティをも含めてなるべく多くの人が「幸福」を得られるような社会を築くことが重要なのではないだろうか。

とかいいつつ、喫煙者氏ねとか言ってたりするんですが。