国立新美術館の「イメージの力」展にいってきた。
ここじたい初めていったんだけど、美術館というよりは地域の公民館とか生涯学習センターというかんじだった。
というのもここは常設展というのをもたず、企画展しかやらないために建物の構造がそれにあわせて長方形の展示室が規則正しくならんでいるというふうになっている。そこにいわば「時間貸し」でいろいろな展示がやってくるのだが、それが生涯学習センターのシステムとそっくりなのだ。
現在通っている大学はキャンパスメンバーズ会員という大学単位での国立博物館との契約を結んでおり、たった300円で入ることができる。
西日暮里~乃木坂間の往復の方が高いくらいだった。
で、肝心の展示のほうはというと、展示ルートの結構はじめのほうに大量の仮面が壁に掛けられている部屋がある。
図録にも個々の仮面の写真はあれどその展示の様子の写真がないので説明しづらいのだが、絵にするとこんな感じである。
三面鏡のような配置 図のような位置に立つと圧倒される |
ぼくはベネチアンマスクや能面が好きなんだけれども、どうして仮面というのは人の心を引きつけるのだろうか。
視線を交わす、というのは「みる」ことと「みられる」ことが同時に発生している。
しかし仮面と視線をかわした場合、われわれは見ているのかも見られているのかもわからなくなってしまう。
展覧会の解説文には、仮面には一方的に見られるだけでその先を見ることができないから・・・ということが書いてあったが、それはちょっと違うような気がする。仮面の中に人が入っている場合はそうなんだけれども、仮面を仮面だけで展示している以上その理屈はおかしい、と感じた。
ぼくは誰かに装着されている仮面にはそれほど魅力を感じずに、仮面として単独に存在している仮面のほうに惹かれる。
仮面のまなざしというものは空虚なまなざしであり、一方で仮面の奥をみようとするまなざしを遮断して無効化してしまう。
仮面の奥にはなにも存在しないのだから。
対象が存在しないのに、視線だけが存在する・・・本来対象がなければ存在し得ない「関係」だけが残っているというところが奇妙な感覚を与えるのではないだろうか。
『不思議の国のアリス』(はっきりとは覚えてないけど、鏡の国のほうではなかったはず)で、チェシャ猫の姿は見えなくなってしまったのにチェシャ猫の「笑い」だけが残っている、というシーンがある。映像作品ではどんな表現をしているのかは知らないが、もちろん実際に「猫のない笑い」を映像化することは不可能である。
笑いというのは、「誰かが」笑っているから存在しているのであって、主格のない笑いは存在しない。視線というものは、「誰かが」「何かを」見ているという関係なのだから主格と目的格が存在していないと成り立たない。
はずである。
しかし、仮面の視線には先程述べたような特徴がある。ということで仮面の視線、仮面を見る視線に主格や目的格から切り離された純粋な「視線」をそこに見たような気分になって、神秘性を感じてしまうのではないだろうか。
このイメージの記憶展は6月までやっているそうなので、興味がある人はどうぞ。
ちなみに、個人的には最初の二部屋以外はふーん、そう。。。という感じでした。
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