先日紹介したTheDoujinshi & Manga Lexiconは名前から大体想像がつくように日本発のプロジェクトではない。管理人のTwitterも見てみたがどこの国に住んでいるのか書いてないようだったので一体どこの国の人が運営しているのかはわからないが、言語選択欄の並びを見る限り西ヨーロッパの人なのではないかと思われる。
知っている人もいるかと思うが、danbooru,gelbooruといったサービスがある。これらはpixivであったり個人サイトであったりもとはさまざまな場所に散乱していた二次画像を集約して徹底的にタグ付けし分類管理してみようというものである。Lexiconはあくまで書誌情報だけをのせている非海賊サイトであるのに対してこちらはコンテンツ自体を無断転載しているところなのであまり便利と褒めるのは良くないような気もするが…便利なサービスである。
そしてこちらはいろいろ調べる限り、アメリカに本拠地をおいていそうな感じである。
これらはともに扱うコンテンツとしてはほぼ日本製のもので占められている。同人誌しかり、二次画像しかり。しかし、このような便利なサービスは日本からは生まれなかった。(同人誌の検索サービスはほぼ無いし、画像は半角二次元板や虹裏(主にjun)といった体系化されていないものしか無い。最近はascii2dsearchがあるが、これは類似画像検索しかできない)
こういう話になるとなぜ日本からはiphoneは生まれなかったのか、ユーザーエクスペリエンスがどうのこうの、…と話し始める人が出てくるかもしれないが今回言いたいのはそういうことではない。
西欧文化圏と日本文化圏における「知」の捉え方にこの問題の根があるのではないかと考えたのである。
日本で、「知」を象徴…というか寓意するものは何か、と聞いたらどのような答えが返ってくるだろうか。おそらく、なんでも知っている「人」がそれであると答える人が多いとおもわれる。本だらけで散らかった部屋で読書しているような姿。
ビジュアルがそれっぽいから選んだだけで、猪瀬直樹自体は嫌いです |
ついこの間東京都知事に決まった猪瀬直樹氏の写真がまさにしっくりくると思う。
この整理整頓されていないという点がポイントである。
あとは何を聞いても知ってる物知り博士的な面もあるだろう。
対して西欧文化圏では、ミシェル・フーコーが考えたように「図書館」 こそが知の寓意になっていると思う。図書館の中では諸々の本は数々の基準にしたがって分類され、すべての本がその分類のダイアグラムにしたがって配分される。図書館の中では先程の猪瀬氏の部屋の写真のように本棚に適当に突っ込まれて横積みされている本の存在は許されない。すべてが分類・管理されていなければならないのである。
日本における知は個人の記憶力によるものであり動的なもの、西欧では静かに眠る本であり静的なものといえるだろうか。
この差異が前述した状況を生み出していると考えられる。
わかりやすく言うとつまりこういうことだ。
日本では、角煮や虹裏で「○○な画像・薄い本知らない?」などと聞かれて さっと画像を貼ったり詳細を提供できる「人」(ソムリエ)が求められていて、西欧ではそのような個人技ではなく知識の集積物であるLexiconやdanbooruが求められているのである。
どちらの方が優れているかとは一概には言えないだろう。Lexiconの情報量は素晴らしいが、Lexiconは角煮のソムリエのようにうろ覚えのストーリーだけで求めていた答えを返してくれるような能力はない。もちろんどちらも扱えたほうがよい。
Lexiconなんかは機械に検索クエリを出すだけなので中學レベルの英語力でも使える一方角煮で質問するには会話をしなければいけない上あの独特な空気を読まなければならないので高度な日本語能力が必要になっている。このため第一言語が日本語であるというのは大きなアドバンテージになっている。
日本語ネイティブでよかった。