バックパッカーは意外と不自由?その文化について調べてみた

今月の学び:「バックパッカー文化」2022年3月

先月から本格始動した「今月の学び」連載。今月は「バックパッカー文化」について調べてみた。 なぜバックパッカーに興味を持ったのかは、記事の最後に書いてある。 また、まとめかたを少し工夫し、キーセンテンスを3つにまとめると言うことをしてみた。

  • バックパッキングは自己表現のツールとして用いられることが多い
  • 自由な旅をする人々は少なく、ゲーミフィケーションされた旅をする層がマジョリティ
  • 「危険」の商品化が進んでいる

バックパッキングは自己表現のツールとして用いられることが多い

バックパッカーの人々は日本社会では支配的となっている「まじめに勉強してお行儀よく過ごしていい学校・いい会社に行って出世するのが良い生き方だ」という風潮に馴染めなかったということが多いようだ。 そこに対立させようとしているものとして、「経験」というワードが出てくることが多い。これは参考文献の「バックパッカーの人類学」でも指摘されるが、「バックパッカーズ読本」の現役バックパッカーによるバックパッキングの魅力を語るコラムでも見かけるワードだ。

自由な旅をする人々は少なく、ゲーミフィケーションされた旅をする層がマジョリティ

バックパッカーの多数は意外と自由気ままにではなく「地球の歩き方」などに掲載されているモデルルートを参考に、それに従って「旅」をしているそうである。バックパッカーズ読本にも地域別にモデルルートが載っており、そういった情報のニーズが高いことがわかる。

バックパッカーのコミュニティの中で、さまざまな「経験」はテレビゲームの実績のように緩やかながらリストとして共有されており、そのリストの中でどれを経験するかという旅の組み立て方がされる。 どれだけ辛いか・危険かといった尺度で経験はレベルがあり、より辛い目や危ない目の経験を語れる方がバックパッカーとしては上に立てる、というヒエラルキーが存在しているそうである。

「危険」の商品化が進んでいる

前の節で紹介したように、バックパッカーのコミュニティないではどれだけ危険なことをしたかが評価に直結する。 この評価を高めるために、さまざまな危険を、商品として消費するという事態が起きているのだという。

イラク戦争終了後の不安定なイラクで日本人バックパッカーが捕まって殺害されるという事件があった。 この当時、バックパッカー向けにイラクへのバスルートというのが存在しており、北アフリカ〜中東近辺の日本人バックパッカーの間ではそこそこ知られていたという。イラクにいくかどうかはその出来上がっているルートに乗る決断をするかだけの問題であったそうだ。 当該人物がそのルートを使ったかどうか確証はないが、今でもバックパッカーたちにはさまざまな「危険」がパッケージとして提供されているのだという。

視点

やりたいことを追求できるのが自然か

バックパッカーは元々ヒッピー文化に由来するということもあって、非人間的な官僚機構から逃げて自然に生きようというムーブメントの一種なのではないかと思うが、よく考えたら好きな場所に移動できるというのは全然自然ではない。 自然な生き方とは、生まれた場所・環境を所与として、それに耐えなければならないものではないか。

南北格差への無自覚

これはバックパッカーズ読本はもちろん、バックパッカーの人類学の方でも無自覚かなと思ったのが、日本人バックパッカーはヨーロッパやオーストラリアからの「バックパッカー」と現地の人々を無自覚に区別していて、それが当たり前だと思っている節が感じられる。 そもそも、日本の賃金水準では低賃金労働で貯められるお金でも東南アジアでは数ヶ月過ごせる、という南北格差を活用しているのが「沈没」という行為だが、そもそもそれが可能にしたのは日本の産業化なのだと思うと、彼らはそこに参加することは拒みつつも恩恵だけは受けているということになる。

旅先でふっかけられた時に、「なめられないようにちゃんと適正価格まで値切ろう、日本人がなめられると未来の旅人にも迷惑だ」みたいな話がバックパッカーズ読本には書かれている。 僕はこういった意見にはあまり賛同できなくて、自分が払ってもいいと思う金額だったら値切らずに払ってもいいし、むしろそうした方が本当はいいのではないかと思う。 すごくミクロな単位ではあるが、不平等の解消につながる可能性があると思う。

バックパッカーはあまり自由ではない

バックパッカー文化のことを調べてわかったけれども、バックパッカーの多くは日本社会の評価尺度からは逃げつつも、バックパッカーの社会における評価尺度にむしろとらわれていく傾向があるのではないかと思った。 もちろん、「本当にやりたいこと」が辛くて危険だけどなかなか経験できないことを経験したいという人もいる(バックパッキングの始祖であったり、現在新しいルートを開拓する人)けれども、そこに憧れて自分の本当にやりたいことを見失っている人が多いのではないかというのが、外からみた感想である。

最近、バックパッカーに見えて途中の移動で飛行機を使ったりする新世代が出てきているという話が紹介される。 これが古いバックパッカーには邪道に見えるそうなのだが、そういったイズムにとらわれない動き方こそが本当にやりたいことをやっている旅行なんじゃないかなと思う。

読書ガイド(参考文献)

「旅を生きる人びと バックパッカーの人類学」

元バックパッカーの人が、俯瞰的にバックパッカーを分類してそれぞれのケーススタディを紹介。長期間の”旅行”を目的とする「移動型」、物価の安い国で過ごすことを目的とする「沈潜型」と、旅行というよりかは生活の拠点を移そうとする「生活型」「移住型」という4類型に分かれているが、「バックパッカー」としては前者2類型なのかなと思う。

「バックパッカーズ読本」

バックパッカーの人たちが、これからバックパッキング(分類で言うと移動型・沈潜型にフォーカス)を始めたい人向けに書いているガイドブック。

処方された抗生物質をとっておいて飲もうという不適切な記述がある。(抗生物質を安易に飲むのは薬剤耐性菌を生み出す原因になるので絶対に避けなければいけない)

来月の学び

「未承認国家の暮らし」

最近もドネツク人民共和国・ルハンスク人民共和国といった言葉を聞くようになった。 アブハジアだったり沿ドストニエルだったり、これまでもロシアは旧ソビエト連邦領内で国際的に認められていない傀儡国家を作ってきたが、そこの暮らしはいったいどういうものなのか?


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