随分前に書いた文章が出てきた その2

東急ハンズ渋谷店の7階が改装されており、理化学用品の陳列が良さげになってました。
ビーカーにはあまり惹かれないけれどもフラスコや試験管、コルク栓のついたガラス瓶等にはなんともいえない魅力があります。
「スチームパンク大百科」というブログでもたびたび理化学用品の記事があり、僕も理化学用品萌えはスチームパンク趣味と隣接した趣味だと感じています。これはなぜでしょうか。
スチームパンクという物自体、確かにマッドサイエンティストがその基本的な要素の一つに数えられていますが(Steampumk Bibleなど)蒸気機関と試験管はあまり縁がないだろうと思われます。
まーじゃあなんで親縁性があるのかといわれたら、ともに「科学が僕たちのものであった時代」へのノスタルジーということではないでしょうか。
つまり、現代では科学研究の最先端にいくには東大なり京大なりの理系に激しい競争(人によっては)をくぐりぬけて入り大学院に進み優秀な成績を残しようやく研究者職を手に入れて(民間もあるけど)ようやくスタートラインに立てるというしくみになっています。何故なら研究に必要な機材はどんどん複雑になってとても個人が買えるようなものにはなってないからです。そしてそこで生み出された先進技術はなにがなんだかよくわからないまま受容せざるを得ないものとして迫ってきます。
このようなテクノ貴族主義的状況に嫌気がさして、原始的で幅広い人々を受け入れていた「科学世紀の幼年期」への回帰を求めているのではないでしょうか。


#これも2年くらい前に書いた文章。さらにもう一個同時期のものが。

 
自分の姿を思い浮かべろと言われて、裸の自分を思い浮かべる人ってそうそういないと思んですが、いかがでしょう。 このように、服装というのは自己像と不可分な存在であると考えられるわけなんですね。 つい最近、Twitterで友人が服装にこだわれば精神も成長するかと思ったけどそんなことはなかったといった発言をしていたので、それに反論してみたいと思います。
いわゆるところの精神の成長した人っていわれて思い浮かべるのはどちらかというと社会のディシプリンに従順な人の姿だと思います。そういう人の服装というのは大体においてあまり主張しない(=こだわりのなさげな)服装になると思います。
ここで逆転させてみますと、いわゆるこだわっている服装といわれるとどんなものを思い浮かべるでしょうか。主張の激しく、言ってしまうと「まともじゃない」ような服装が浮かぶのではないでしょうか。そしてそれについてくるイメージは先程の裏返しとして「子供っぽい」というものになってしまうと考えられます。また、「男は見た目よりも中身」という古臭い言葉も考慮するとファッションというものは男性-大人中心社会に置いて女性的→子供という周縁に位置付けられるものとされてきたと考えられるわけです。
(続く)
これは余談になりますが、ゴシックファッションやパンクファッションがロリータファッションと結びついたのは単に組み合わせると可愛いというだけでなくそれらが先程述べたように「子供らしさ」を表すことも関係していたのではないでしょうか。つまり見た目の上だけではなく思想的にも相性がよかったということではないでしょうか。



これはまるで反抗期の文章みたい。当時は「大人になる」「丸くなる」ことがかっこ悪いと思ってたんでしょう。(今でもそうだけど)

昔書いた試験の答案なんかにも今結構見なおしてみたい文章がある。(芸術とは何か、について書いたものとか)知識量も少なかったころのものなので、結構原始的なことを書いているんだろうけど何かいいアイディアが眠っているかもしれないなぁ、と。
 
情報の整理はしっかりしておきたいなぁと思った。