マルタの学校で知り合った人たちとは帰ってきてからも「同窓会」をやったりする。 そして思うのが、学校というコミュニティの特殊性である。
FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
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多種多様な人が偶然「クラス」といった単位でまとめられ、一つのコミュニティを形成する。力関係や政治がまったくないとはいわないが、少なくとも制度化されたものはなくみんな平等。そして特に集団として目的があるわけではなく、よりどころのないフワフワした存在であることを許される。 習うことも多くは即金が稼げるとか即強くなるとかそういうものではなく、抽象的なものにみんなで触れる時間となる。 そんなところに押し込められていたら、95パーセンタイルくらいで友達1人くらいはできるだろう。
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会社も多種多様な人間が集まっているけれども、上意下達の制度化されたヒエラルキーもあるし利益を上げるという具体的な目的のために形成された集団である点で異なる。というわけでできる友達の質というのは変わってくるんじゃないかと思う。ドワンゴでできた友人は学生時代の友人っぽかったけど笑
だからこそ大人は「学生時代の友人は大事にしろよ」と説教したくなるのだろう。
先日、知り合いとマルチ商法や宗教に誘われたことがあるかという話になった。
僕はアムウェイの偽装サークルに参加してしまったことはあるが勧誘が始まる前に逃走したので勧誘まで受けたことはない。 その場にいた人が仏教系のセミナーに参加してしまったことがあるとのことで、勧誘の様子を教えてもらった。
よく噂で聞く通り、中学の同級生から突然Facebookでメッセージがやってくる。「久しぶりにあわない?」と。 その場にいた元保険営業マンは「ブラインド営業はほぼ100%失敗するから下手ですね笑」と笑っていたけれども、最初はあくまでも宗教の勧誘ではなくてただ久しぶりに会おうという感じなのだという。
いいですね、とポジティブな返信をすると、せっかくだったら、ただ会うだけじゃなくていいところあるんだけどいかない?みたいな感じで多くの人が集まる場にいく雰囲気だけを伝えてくる。 まぁでも友達だったし…と行ってしまうと、まさかのセミナーが繰り広げられているという感じらしい。
会場につくと、元友達は「あっ○○さんこんにちは!」みたいな感じでいろいろな人と挨拶をかわしていて、信者同士はとてもフレンドリーで仲がよいようだ。 そんなこんなしているうちに講演が始まっていったのだという。。。
うちの近くにも創価学会のお寺?ホール?みたいなのがあるんだけど、毎週末になると多くの人が集まっている。ママチャリに乗ってお母さんと子供で参加みたいな人も多く、そういえば小学校時代近所でもちつき会とかあったなぁと思い出させるような光景がみられる。
やっぱ思ったんだけど、新興宗教しかりマルチ商法しかり、職業人※たちの「学校的なコミュニティ」に対する憧憬を呼び覚ますようなつくりになっているように思う。 定常的にひとところに集まって、比較的上下関係のゆるい人間関係のもとで、特に目的もなく抽象的なものに向き合う時間。 学生時代はいつまでも続くと思っていたのに終わってしまったそういう時間を取り戻したい、というニーズにうまく応えている。
でも、そこで宗教やらに手を出してしまうのは本人にとっても社会にとっても有益ではない。
学校的なコミュニティが懐かしいのなら、学校にもういちど行けばよいのである。
日本だと、小中高大といった順序があって、どこかで卒業して職についた瞬間にもう勉強は終わりだと思う人が多いらしい。 (幸い、ITエンジニアは一生勉強だという意識を持っている人が多くてそういった人たちに囲まれていられるのはとても幸福なことだと思う)
でも、世の中の知識というのは新しいものが増えるのももちろん、昔教えられていたことが今は間違いだったと判明していることもある。 よく「今はいいくに作ろう鎌倉幕府とはいわないんです!」と聞くけど、そういうのが最たる例だ。 現代はそのスピードが加速している。
そういった時代、20そこらで学校に通うのはおしまいというのは時代にあっていない。学校というものを、一生付き合うものとして社会に再実装するべきだと考える。
たとえばはんこをなくそうという動きに対して、はんこ業者が反発するというもの。 はんこで本人証明なんていますぐやめるべきだと思うんだけれども、はんこ業者が反発するのは至極当然である。 はんこを作ることしか取り柄がないのにはんこのいらない社会を目指そうなんて言わたら、その人からしたら恐怖なのは間違いない。
そのとき、日本ではじゃあ新しく何かを学んで次の職を見つけるというセーフティネットがない。 ちゃんとこれからの時代必要なものを学べる社会制度が整備されていたら、「必要なくなっていくなら仕方ない、自分も新しい時代に適合していこう」という気分になる人ももっと多かったはずだ。
マルタで知り合った人が、マルタの語学学校を卒業後デンマークのフォルケホイスコーレに行く予定だと言っていた。
こういうのを見ると、すごくいいなと思う。 学校が恋しいなら、楽しかった部分だけじゃなくてお勉強の部分ももう一度やり直そう。
※社会人という言い方はやめようという意図。