最近、とあるオウム真理教元信者のブログにはまってしまった。 このブログなのだが、初期のポンコツなオウム生活の記事が超面白い。(ボツリヌス菌を培養していたりするのだが笑)
突然こんなことをいうと大丈夫かと思われそうだが、言及するのが始めてなだけで昔から好きな話題ではある。 (別にオウムだけでなく神秘体験全般ですよ) システム創成学科出身だが、PSIと聞いてはじめに出てくるのはパーフェクトサルベーションイニシエーションのほうだ。
最近もふとニューナルコのイニシエーションについて知りたくなって調べていたら、めぐりめぐって上記のブログにたどり着いた。
今までもいろんなイニシエーションの話を読んだりはしていたんだけれども、オウムという集団が何を目的とした集団だったのか実際に中にいた人の立場から語っているのは目からウロコが落ちるような内容がたくさん書いてある。
すごい「わかった!」という経験をしてしまったので、この感動が残っているうちにわかったことについて書いてみようと思う。
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オウムは修行者集団であって宗教ではない
ここは割と僕の独自定義になってしまうのだが、宗教とは世界を説明するものである。 たとえば「なんで海が荒れるの?→それは海の神様が怒っているからだ」、「なぜ太陽がなくなってしまったの?→女神様が洞窟の中に閉じこもってしまったからだ」というのが宗教だと思う。当然そこから海の神様を鎮めるために生贄を〜とか具体的な方法論が出てくるが、それは本義ではないとしよう。
科学革命以降の自然哲学とか理学と呼ばれる部分に相当するものであるといえる。 科学時代の我々から見てどんなに出発点が頓珍漢であっても、世界を説明するための統一的な枠組みを提供することを目指している。
そして、「説明する」くらいだから当然他者とのコミュニケーションが前提となる。
一方で修行は本人が体験できればそれでよい。解脱に本人がそこにたどり着くことだけを目的とする。他人や社会、さらには物質世界なんてどうでもよいというのが修行者である。
オウム真理「教」という言葉に引っ張られてしまうとオウムはオウムなりの世界観を持っていてみんなでそこを目指そうとしていたと考えてしまう。資金集めのために獲得した信者の多くも「宗教」を期待していたのではないかと思うが、コアとなっているのはあくまで修行であるようだ。
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サピエンス全史でも宗教について語られているが、宗教は世界の認知の基礎づけであり、お互いがわかり合うためのプロトコルといっても過言ではないだろう。 天国も地獄も信じない人に、来世での救済を餌に善行をすすめても無意味となってしまう。
クンダリニーの上昇、だとかオウムの修行は「個の強さ」への志向性であり、宗教性が薄い。
グル志向
解脱というのは、解脱者であるグルに盲従することによって得られるという。グルに疑問を持ったり、逆らったりしたら解脱には達することができない。
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こう聞くと、グルを持たない我々は「そのグルが本物の解脱者かどうかわからなくていいの?グルを騙る偽物かどうか確かめなくてよいの?」と思ってしまう。
しかしグルが本物の解脱者かどうかは、自分が解脱しないとわからない。まぁ解脱した瞬間自我とか意識もなくなるだろうので、「わかる」ことはないが。 解脱に達することができたらグルは本物だったということになる。 なので、そもそも確かめようがない。
そしてここが超重要なのだが、すべての生命は解脱するまで輪廻転生を繰り返す。なので別にこの一生で解脱できなくても、無限にチャンスがあるわけだ。 よって修行者の正しい思考としては、「この生で付き従ったグルが偽物だったとしても、これから何度も生まれ変わる中で本物のグルに巡り合って解脱できたらそれでよい。もしグルが本物だったらこの生で解脱できるわけだし儲けもの」ということになるのだ。パスカルの賭けととてもよく似ている。
この二点を理解すると、オウム事件についてかなり違った見方になってくる。オウムが宗教だという認識の下だと、オウムは「全員麻原彰晃とおなじ世界観を信じ込んでいて、そのもとで行動する狂信者集団」でなければならない。そうでなければサリンを撒くなんてできないはずだ。
しかし、オウムの思考法を知ると、かならずしもそうである必要がないことがわかる。 とりあえず麻原彰晃をグルとして認めたから麻原が望むことを無心に実行するだけ。別に自分はサリンをまいて殺人がしたいわけじゃないが、別にそれで人が死んだって構わない。(自分の解脱とは関係ないし) もし麻原が偽解脱者で、自分も捕まって死刑になったとしても次の生でまた新しいグルを探して解脱にチャレンジしたらいいや。ということになる。
善悪とか価値の判断についてはあえてこの記事では避けるけれども、自分とは根本的に違う土台にたった存在の行動を自分の土台の上で解釈しようとしてもむいみなのだなぁと思わされた。