安倍晋三元総理大臣の暗殺というニュースについて、まずは残念なことであるということとこのブログとして暴力の行使を推奨したりする意図は全くないということを最初に述べます。
安倍晋三氏は暗殺という形ではなく、法の裁きを受けて有耶無耶になっている各種事件について追及をされてほしかったというのが思いです。
政治は原政治の特殊な一形態
クラウゼウィッツは戦争論の中で
戦争は一つの政治的行為である。戦争は他の手段をもってする政治の継続にすぎない
とのべた。
要するにクラウゼウィッツは政治を利害が異なる各自が自分の意思を通していくプロセスだと言っている。 そして戦争をそのプロセスにおける一つの手段として捉えている。
この記事ではこれ以降「自分の意思を通す」ことを”原政治”とでも呼ぶことにする。
なぜ戦争が政治の継続になり得るのかと考えると、むしろ政治こそが戦争の特殊な形態であるというアイディアに辿り着いた。
暴力こそが原政治の手段として最初にあったが、痛い思いはお互いしたくないし話し合いで解決する範囲であれば話し合いで解決したほうがいいよね、といういろんな人々の合意のもとで政治が生まれた。 その点でいうと、ギャング同士の抗争を暴力以外の手段でまとめる手段として発展したと言われるブレイクダンスやラップバトルと国会は遠い親類のようなものだ。
むしろ政治の方が本来暴力が取り扱う領域の一部の特殊な解決方法であって、暴力よりも汎用性が低い。となると政治で解決できない問題が出てきた時に暴力が登場するのは自然なことである。
カール・シュミットは政治的なものの概念の中で、政治とは「友と敵を分ける」ことだと述べた。友、つまり自分たちの意思を敵に反映しようとすることにほかならない。
余談だけど「例外状態」とか「決断主義」というのは、政治から一部染み出した手段を用いて原政治的なプロセスを進めようという考え方の発露なのかなと思った。
政治のなすべきこと
政治がなすべきことの一つに各論の課題解決というのももちろんあるが、最も重要なこととして原政治の手段として暴力ではなく政治が選択されるようにするということもある。 政治による課題解決を社会の構成員が選ばなければ、政治を続ける意味がない。
政治を担う者があまりに「自分の意思」とかけ離れたことをしていると思う集団にとっては、本来暴力に訴えることの効用は政治に期待することよりも高い。 そこで政治の側は暴力を独占(警察権力)しようとして、暴力に訴えることに制裁を与えることを約束することで暴力を先行しないようにしていくわけだ。
しかし暴力に訴える効用が制裁のリスクを越えるほどに政治不信が進めば、暴力を行使する者が出てくるのは合理的な話である。(テロル)
民主主義への挑戦を非難できるのは誰か
今回の暗殺事件が、そういう原政治的な意図に基づいたテロルなのかはわからない。 むしろ十中八九単に超悪いことをして世の中に注目されたいと思っていたとか、今演説している安倍晋三は本物ではなくてゴム人間に違いないみたいな妄想に取り憑かれていたとか、原政治的な意図とは関係なく起こした事件なのではと思う。
現職の政治家は、これがテロルかも前提で「民主主義への攻撃は許せない」的なことをいっていた。 しかしそうだとしたら、その原因は今の政治が容疑者にとってあまりに魅力的でなかったから。その政治に関わってきたのは誰だという話になる。
この暗殺事件を将来に生かすには
今政治家をやっているような人たちは、政治というプロセスが暴力よりも優れているとう確信があるから政治家をやっている(と信じたい)だろうに、その土台に揺さぶりをかけられて怒るのは人間的には仕方のない反応だ。 ただこれを民主主義への攻撃だみたいな他責思考で終わるのではなく、今の自分達がやってきた政治より暴力の方を選択する人たちを世の中に産んでしまっているということだということにも考えを巡らせてほしい。
政治は国民全員が幸福になるためにルールを作って維持するという契約(=憲法)を国民と交わす代わりに暴力を合法的に独占しているけれども、そのルールの中では幸福になれないという人はゲームから降りてしまう。 その相手をルールを破った!と非難しても耳には届かない。
(ベンヤミンの「暴力批判論」から言葉使い影響受けているかも)
なるべく暴力を使わずに政治で解決するというのは、人類の偉大な進歩であって、これを後戻りさせるべき理由はない。 政治家の人たちには全ての人がこのゲームに参加し続けたいと思うルール作りが自分達の使命というのを再認識するきっかけになれば、せめてもの救いになるのではないか。