重慶大厦(チョンキンマンション)の思い出

2016年2月に中国に行った。 実家に帰っていた客家系の友人と広州で待ち合わせたのだが、広州や深センに直行する便は値段が高かったため、一度香港に寄ってから鉄道で広州に向かうことにした。

香港は夜に到着して、翌朝すぐに鉄道に乗るだけだったので、とにかく安い宿、ということで適当に取ってしまった。 この宿があったのが、後に知る重慶大厦なのであった。

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重慶大厦

重慶マンションで検索すると、こんな結果になる。悪の巣窟だとか魔窟だとか、ひどい言われようである。

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Wikipediaに記事が作られるほどのスポットで、様々な国から香港にやってきた有象無象の外国人たちが夢をつかむための拠点としている場所なのだそうだ。

自分が泊まった宿は、はじめに行ったときは誰もいなかった。 どうしようもないのでドアの前に座り込んでいたところ、通りがかかった人が助けてくれたのだが、その人も他の階で宿をやっていたそうだ。

ようやく部屋に案内されたが、ベッドルームはベッドとベッドと同じくらいの面積の床があるだけ。トイレ・シャワールームは日本の個室トイレくらいの広さの中にシャワーとトイレが両方備わっているというもの。 後述する書籍の中で紹介される重慶大厦のゲストハウスも同様の記述があるので、きっとみんなそうなのだろう。

ちなみに、ビルの中でとった写真があった。

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そんなこんなで、僕の人生とわずかなながらかすってしまった重慶大厦であるが、その4年後にふたたび出会うことになった。

ちなみに、当時の記事があった。

www.k5trismegistus.me

「チョンキンマンションのボスは知っている」

半年くらい前に出版されたようだが、「チョンキンマンションのボスは知っている: アングラ経済の人類学」という本を読んだ。 重慶大厦を中心としたタンザニア人コミュニティに関するエッセイだ。

アングラ経済学といってもいわゆるアウトローの話ではない。とはいえ登場人物の多くは不法滞在でもあり、法の半分外の話である。なので関わりがないわけではないが。。。 西洋型近代社会のような、人が重層的でもある複数のコミュニティに属し、さまざまなアスペクトを演じ分けるのではなく、全人格的な交流を求められる社会であるようだ。 誰もが「金を稼ぐため」といいつつ、見返りがなくとも困っている同胞がいれば助けるし、香港で斃れた者がいれば遺体を故郷に返すために金を出し合う。 誰も「経済人」としては生きておらず、ただ1人の個人が経済活動"も"しているということだといえるだろうか。

(ちなみにこの本の直前に読んだのが「交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学」なのだが、こちらでも「宗教的」「経済的」といったタクソノミーが相対化されている、、)

その一方で、誰かに全幅の信頼を寄せることはなく、常に「あるコンテクストの範囲内で」信頼できるかどうかという都度の判断が行われることとなる。

商人たち

チュニスに行ったとき、路上でおそらく中国からやってきたであろう携帯関連グッズなどを並べている露店を多く見た。 いったいこれらの商品がどういう経緯をたどってこの路上にたどり着いたのか謎だったんだけれども、香港にいる商人たちが仕入れ、コンテナ船でアフリカ大陸に運び込んでその商人の家族・親族やそこから雇われた人が小売をするという形なのだろう。

ブロックチェーンによるトレーサビリティなんかとは正反対の透明性の欠片もないような経歴をたどってきたのだろうが、それでも物はあるし、買うことができる。 ブロックチェーンの革新的な点としては、「信用」をテクノロジーによって作り出すことができることで、さまざまな取引における安全性をより安価に、高速に作り出すことができる点があげられる。 そういう未来もありつつ、重慶大厦に巣食うタンザニア人たちのように、人が信用できるかどうかは状況によってかわりうると割り切って付き合っていくという世界もありえるのかもしれない。

ブロックチェーンの作り出すかもしれないディストピア

ブロックチェーン技術の有用性は言うまでもない、と僕は思うのだが危険をはらんでいることも事実だ。 Webの登場によって、人の犯罪履歴なんてものは社会からなかなか忘れられないようになってしまった。

日本社会は、一度レールを外れた人に厳しいと言われる。(性犯罪だけはゆるいのかもしれない)そしてその傾向は加速傾向にあるといってよいだろう。 ブロックチェーンはこの傾向をさらにはずみをつけてしまう可能性はないだろうか。確かに一度他人を裏切ったことがあるかもしれない。でも、その履歴がいつまでも消えないとなると、未来永劫裏切り者として生きていくことしかできなくなってしまう。 法は執行に人手を必要とするため、逃げ場をつくることが容易だった。

しかしブロックチェーン技術(Code is Law、スマートコントラクト)は、いくらでもスケールしうる。限界がなく、社会のすみずみまで徹底してルールを行き渡らせることが可能だ。 偏執的な社会の"健全"化欲求とブロックチェーン、そして監視技術が結びつけば、これまで存在が黙認されてきた、暗い部分が生き残ることができなくなってしまうだろう。 来たるべき未来に備えて、重慶大厦のボスの生き方を知っておくのは有用かもしれない。

「善き正しくないこと」を見つけるために。

wired.jp