「バリー・リンドン」という映画を見た。
ちなみに、同じ監督の「アイズ・ワイド・シャット」を見たときの記事はこちら。
作品について
この「バリー・リンドン」は、7年戦争の時代にとあるアイルランド人青年が嘘や裏切り、いかさまで成り上がっていくさまとその後の没落の様子が描かれる(架空の人物の)伝記映画である。
当時からヨーロッパは国際化が進んでいるなぁと。主人公はアイルランド人なのだが、ハンガリー人だと偽ってスパイ行為を行なえと命令されるシーンがある。 近代国家という概念の端緒はウェストファリア条約にあるといわれているが、それから100年後徐々に今のグローバル国際秩序のアーキタイプが徐々にできあがっている様子なのだろう。
キューブリック監督は歴史考証にこだわったあげく、照明も当時あったものをということで夜のシーンもろうそくの火だけで撮影を行ったそうだ。 このため、F0.7というとんでもない明るさのレンズを撮影に使ったそうである。
戦列歩兵
さて、主人公のレドモンド・バリーは最初イングランド軍の戦列歩兵となる。この戦列歩兵というのは、今から見るとなかなかに頭がおかしい兵種である。
主な装備はマスケット銃と銃剣。わざわざ明るい色の服を着て、まっすぐに立ち密集隊形で前進していく。味方が撃たれて目の前で倒れても、助けることはおろか横にそれることすらなくまっすぐ、踏み越えて進まないといけない。
ただ、これにも一応理由がある。「バリー・リンドン」の中でも、将校が町中で一般の市民を募兵しているシーンがあるが、素人に手っ取り早く戦わせるにはこの方法が良かったらしい。 ではなぜ素人が戦うようになったかというと、銃の誕生が理由としてある。そもそも使うのに訓練が必要な槍とか剣と違って、銃は誰でも引き金を引くだけでよい。 しかも当時の銃は射程も短く連発もできないため、「撃ってください」といわんばかりの集団が歩いてきたとしても、撃ちつくせるほどは撃てない。だから戦列歩兵でも充分敵陣にまで攻め込むことができたわけだ。
また、募兵も経済的なインセンティブだけで行われており、兵士はスキがあったらすぐ逃げようと思っている者ばかり。密集させておいて、逃げられないようにする必要もあった。
というわけで、当時のテクノロジーや社会情勢を踏まえれば合理性はあったといえる。
「気前の良さ」による優位
「バリー・リンドン」で描かれる時代からおよそ80年後、クラウゼヴィッツは戦争を「敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」と定義した。
しかし、この戦列歩兵の時代は「敵を強制する」ことではなく、どれだけ「気前よく」自分たちの資産=兵士を破壊できるかによって相手に優位性を示そうとする、ポトラッチに近いものではないのかとすら思った。
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つまり、戦争を行う君主は相手の戦力を打ち砕くこともそうだけれども、自分の兵士の命を「気前よく」贈与することで敵の君主に「負い目」を感じさせることを目的としていたのではないだろうか。
ヨーロッパ大陸内での戦争に限っていえば、戦争を行う主体である君主たちは同じ文化を共有している数少ない家系の方々同士の争いである。まぁ、クラウゼヴィッツのいうところの「絶対戦争」というのは起こり得ない状況であったのではないだろうか。
戦争の合理化
社会における交易のメインとなる形態が贈与から交換になるとともに、「気前の良さ」は古い時代のものとなった。※
これにともなって、戦争からも気前の良さはなくなり、コストを最小限にして「敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為」としての局面が強化されることになったのではないだろうか。
さらにその進化系が、「超限戦」だろう。
超限戦とは1999年に人民解放軍将校の著した戦略研究の本のタイトルで、従来の軍事的な領域にとどまらない戦争の形態のことをさす。
そもそも毛沢東は人民戦争理論というものを提唱していて、職業軍人と民間人が有機的に連携することを重視していたそうだ。 (その先に何があると思っていたのかはわからない、、。勝ったところでどうするんだろう。)
戦争行動は軍事的な領域にとどまらず、他国の世論操作なんかは「強制」すらせずに自分たちの意志を遂行することが可能になってきている。 テロ行為は戦争よりもはるかに少ない犠牲で相手に強い恐怖を抱かせ行動を変容させることができる。
国家の形をとらないさまざまな組織が国家の主権を脅かすようになってきている。
近代国家という存在が脅かされる今、近代国家が生まれつつある時代の物語を見るというのも、過去から学ぶ上で役に立つかもしれない。