「師匠はつらいよ」を読んで「男はつらいよ」について考えた 〜なぜ男はつらくなくてはいけないのか?

先日の羽生さんの講演会の後で、一緒に行った家族がこんな本を買っていた。

僕は最近テレビでニュースを見ないので全く知らなかったのだが、藤井名人の師匠として藤井名人の対局の翌日によくテレビに出ている人なのだという。

さて。この本のタイトルは「男はつらいよ」をもじったものである。 それに対して、ふと思ったことがある。

男はつらいよシリーズの記憶

昔なぜか男はつらいよシリーズを何作か立て続けに見た記憶がある。 おそらくなのだが子供自分にあの独特の名乗り口上が気になったのではないか。

わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、 姓は車、名は寅次郎、人呼んで "フーテンの寅" と発します。

全50作もあるなかどれを見たのかはもう遠い記憶ではあるが。

今は比較的柴又まで行きやすい場所に住んではいるのだがまだ帝釈天も訪れたことはない。

「男」がつらいのか

そんな遠い記憶を頼りにしているだけであらためて映画自体を見直した訳でもない点には注意。

このシリーズのタイトルは「男はつらいよ」なのだが、「男」だからつらいというストーリーではなかったように覚えている。 周囲にもたくさん男性は登場しているが、「つらい」ことになるのは基本的には寅さんだけで、寅さんの周りにいる男たちは別にそんなつらそうではなかった。

寅さんの生きる規範

寅さんは現代的な暴力団ではないがヤクザの世界に身を置いている。(的屋というやつ) 帝釈天に〜の名乗り口上はそのヤクザ世界の特徴だ。

ヤクザ世界の描写には「男気」とか「男を上げる」とか「男が男に惚れる」とかやたらと「男」という言葉が出てくる。

「おとこ」という言葉に侠なんていう時をあてることもある。

寅さんの場合は自分でヤクザの世界に身を置いている訳なので自業自得という側面もあるが、過剰に”男”らしさを求める規範のもとで生きている。

主題歌の中に次のような一節があるそうだ。

男とゆうものつらいもの 顔で笑って 顔で笑って腹で泣く 腹で泣く

“男”はつらくなくてはいけない

“男”らしさの結果としてつらいということですらなく、「つらい」ということがそのまま”男らしさ”であるとすら描写されている。 この規範のもとで”男”らしくあろうとするには、必ずつらくなくてはいけないということになる。

寅さんがヤクザの世界に飛び込んだのは大金を掴むためらしい。 大きなことを成し遂げるにはつらいことを経験しがちというのは正しいだろう。スタートアップのHARD THINGSみたいな。

通常の(例えば会社経営)感覚で考えれば「つらさ」というのはゼロにはできず向き合わないといけないだろうとは思いつつ、可能な限り回避・低減すべきものである。 しかし”男”が成功するためにはつらさはむしろ積極的に追い求めないといけないものなのだ。

男がつらいかというより、寅さんが憧れる「”男”らしさ」がつらいということが示唆される。

ヤクザ組織において、親が子を搾取するための大義名分としてこの”男”規範が都合よく用いられていたということは一つ考えられるのではないか?

なぜ“男”はつらくなくてはならなかったのか?

マスキュリニティ研究ということで”男”らしさが男性を苦しめてきたことは、日本にも海外の研究にも見られる。しかし”男”の規範がどのように樹立・維持されてきたのかは文化圏によって異なるんじゃないかと思う。

日本には男子校やら体育会のようなヤクザ的組織が存在している。 それらで”男”という規範が誰の利益のために守られてきたのか・どう隠蔽されてきたのか、というのは一つ研究テーマになるんじゃないかと思った。

絶版本のようだが、↓なんていう本があるそうだ。どこかの図書館にないだろうか。

「師匠はつらいよ」の内容は全く関係ないけれどもこんな連想が広がった。

ちなみに「師匠はつらいよ」自体読みやすいし面白いエッセイでした。