Mistero e melanconia di una strada

地方都市は「ほどほどパラダイス」になった!地方の若者におけるイオンモールの存在感
この記事に触発されて。この連載、めちゃくちゃ面白いので読んでみるといいと思います。

最近、「マイルドヤンキー」という言葉がはやっている。マイルドヤンキーとは、上京志向がなく、地元でいつまでも小学校や中学校で知り合った「仲間」とつるんでいるようなヤンキーということだ。
こういう存在は最近になってあらわれたわけではなく、昔からずっといたのに最近になってようやく名前が付いたことで「再発見」されたというのが正しいところだろう。

自分は「郊外」に住んでいた時期が結構長かったとはいえ、こういう生き方とはまったく離れた生き方をしてきた。現にいま都内中央部に住んでいるし、高校大学選びは超上昇志向でやってきたといっていい。(荒川区って渋谷なんかより格的にはずっと都会ですよ。日暮里は「江戸」に入っていたわけだし。。。)

さらに、自分は小学校入学時は千葉(船橋市)の小学校にはいり途中兵庫(西宮)の小学校に転校し、中学に上がる段階で京都(京都市)に移って最後の一年は東京(府中市)の中学へ。
そして東京(荒川区)の高校へ入って、なんやかんやで家も荒川区に。
こういう繰り返しの引っ越しのたびに、人間関係をリセットしてきてしまった。現在では最も古い知り合いは高校の時に知り合った人。
つまり、「地元の仲間」とか「幼馴染」とかとはまったく無縁の人生を送ってきたわけである。

  

でも、割と本気でそういう生き方がうらやましいと思う。母方の実家付近にはイオンショッピングモールがあるのでよく訪れる。するといたるところに「マイルドヤンキー」がいる。おそらく働いている側もそう。イオンはマイルドヤンキーの、マイルドヤンキーによる、マイルドヤンキーのための場所なのだ。
で、そんなマイルドヤンキーたちを見ているとこういう生き方って実は一番幸福なんじゃないかな、といつも思わされる。(平和な世の中とイオンが続くという前提では)
いつ行っても、イオンに「過去」はない。イオンにあるのは終わりのない「今」だけだ。

……

「辛い思い出」は嫌なもの、と思う人が多いかもしれないが、僕はむしろ「楽しい思い出」のほうが恐ろしい。
ARIAには、こういうセリフがある。

ここには あの頃の楽しい想い出が…
今でもいっぱい詰まっているんだ

この言葉は最後のほうで出てくるんだけれども、それまでにあった何気ないやりとりがこの一言によってとても重い意味を与えられている。

今…楽しいと思えることは 今が一番楽しめるのよ
だから いずれは変わっていく今を
この素敵な時間を大切に ね

とか

あの頃は楽しかったじゃなくて あの頃も楽しかった…よね

とか。「あの頃」は何気なく聞き流していたアリシアさんの言葉が、最後に突き刺さるように迫ってくる。
過ぎ去って行った過去も楽しかったけども、きっと今もそれと同じくらい楽しいよ、ということなのだけれども、僕はこういう考え方ができない人もいる。

ARIAのキャラクターはみんな眩しすぎて、キルアみたいに
ゴン…お前は光だ 時々眩しすぎて真っすぐ見れないけど それでもお前の傍にいていいかな…?」
状態になってしまう。
まぁ、強いてあげるなら藍華ちゃんがいちばん好きですね。
   

「あの頃は楽しかった」、そう思いはじめてしまうと止まらなくなってしまう。だからこそ「楽しかった過去」から目をそむけてしまう。そして過去を思い出させるような物も捨ててきた。

こうやって生きていくと、いったい何が残るのだろうか。もう何ものこらないんじゃないだろうかと最近思うようになってきた。しかしそれに今更気づいたところでもう過ぎ去った時は手が届かないところに。

 
現代都市の共同体は、基本的に入退出が自由である。一方で地方には土地性に根差した不可避の共同体がある。(と信じている)
そういった共同体はかつてはうっとおしいだけのものだと思われてきたわけだけれども、実際にはそういう時にはうっとおしいかもしれないけど、「絶対になくならない居場所」があることによって得られる幸福があるような気がする。
地元に残る、というのはそういうことなのだろう。円環を描く時間軸の中に生きること。成長すること、先に進むこと、未来にいくこと…そういうことが人間の幸福につながると考えられてきたが、そのときは本当にくるのか?



ちなみに言っておくと、ARIAのことをありがちな日常系マンガだと思ってスルーした人は是非読んだほうがいいでしょう。人間が生きていくとはどういうことか、深く考えさせられる素晴らしい作品です。