映画『ハーツ・アンド・マインズ』

自分はベトナム戦争をテーマにした作品をしばしば鑑賞する。

映画もそうだし、「バトルフィールド ベトナム」とか「コールオブデューティー ブラックオプス」などゲームもそうだ。
ゲームに「鑑賞する」という言葉を使うべきなのかと疑問に思うかもしれないが、コールオブデューティー ブラックオプスは「鑑賞」という言葉がよく合う。世界観とか幕間ムービーがいいだけで、やってるときの面白さはそうでもない。

最近また新たに2つの映画を見た。ひとつは「ハンバーガー・ヒル」、もう一つが表題にもある「ハーツ・アンド・マインズ」。

  
「ハンバーガー・ヒル」はいわゆる戦争映画で、実在する戦闘をベースにしているが映像自体はフィクション。
戦術的価値があるわけでもない丘を、どういうわけか占領しないといけなくなってしまった「第101空挺師団」の面々が意味もなく死んでいく様子を描く映画である。
なぜこの丘を占領しないといけなくなったのか?せかいでいちばんつよいアメリカ軍としてのプライドなのか、どこでくだされた決定かわからなくとも上から降りてきた命令には従わなくてはいけない官僚機構のせいなのか。
 世界に自由と民主主義を広げる、共産主義の魔の手から世界を守る…。いま自分たちがなそうとしていることとまったく結びつかない大義名分で自分を納得させるしかないという。
まぁ決して悪くはないしそこそこおもしろいんだけど、記憶に残るって感じでもなかった。

一方「ハーツ・アンド・マインズ」はドキュメンタリー映画で、基本的に映像はすべて「本物」。(本物ってなんだろうか)
ベトナムで撮影された映像とインタビュー映像の切り貼りで作られており、たしかナレーション等は一切なかったはず。
有名な『サイゴンでの処刑』 ややけどを負って全裸で走ってる少女など、どこかで見たことあるだろう光景がちらほら。
もちろん本物の死体がいっぱい出てくるので苦手な人はダメかもしれない。

基本的には直接的にベトナム戦争に関連する映像が流れるんだけれども、ところどころ大学アメフトに関する映像が挟み込まれる。
そこに映っている若者が徴兵でベトナムに行き、○ヶ月後には死体袋に入って帰国した…とかそういう話ではなく、突然まったく無関係な映像が入ってきたように見える。
この映像が挟み込まれる意図について考えてみた。

まず考えられるのが、アメリカにとどまるアメリカ国民のベトナムに関する意識と実際にベトナムに言った兵士たちの意識とのずれを表現するため。
アメリカにいるアメリカ人にとっては、ベトナムで何が起きてるかなんてどうでもよいのであって、それが帰還兵の「居心地の悪さ」をも生み出しているのではないかということ。

そしてもう一つが、アメリカの白人社会にある「男」信仰とその暴力性を描くためではないだろうか。
アメフトのシーンでは、とにかく男臭いアメフト選手、彼らを下品な(性的なという意味ではなく)言葉で鼓舞する監督、偏執狂的な気合の入れようで試合を彩るマーチングバンドとチアガールだち。
これは個人的な主観だけど、このスペクタクルの根底には強烈な「男」への信仰が見える。
以前「今週のアンテナ」で取り上げたレイプ犯と銃乱射犯に共通する「本物の男」信仰を参考に

戦争の背後にどういう大義があろうが、戦争が成立するためには個々の兵士が「目の前のあいつをぶっ殺してやる」という暴力性を発露することが必要になる。
社会的にそういった暴力性を肯定し、特に兵士予備軍である若い男性に対しては戯れとして暴力性の発露を行わせる。これによってアメリカ社会は常に戦争に備えているのである。

ここから言えることだが、スポーツ=いいこと、みたいな風潮があるけれども、実際スポーツってかなり暴力的な側面が強いし一般に思われてるほどよいものでもなく政治的な意図が入り込みやすいものだと思う。
第2次世界大戦開戦前、ドイツも日本もオリンピックにお熱だったのはそういうわけだ。(日本は結局開催しなかったが)

スポーツをありがたがる風潮によって、暴力にたいする忌避感をやわらげて国民を戦争へを駆り立てている。オリンピックが平和の祭典なんてどういう理論なんだろう。(古代ギリシャにおいて、オリンピック開催前後に停戦が行われていたという。でもそれは平和を求めてじゃなくて次の戦争に備えてのことなんじゃないか。)
すごい話が飛躍するようだが、我々がオリンピックをありがたがることによって数多くの人命が失われているはず。