投資思考と民主主義

自宅マンションのエレベーターのなかに、次回のマンション総会だか理事会のお知らせが張り出してあった。 議題の一つに、「町会からの脱退の是非」があるらしい。

地域からの疎外

僕が住むマンションは分譲マンションであるが、僕が持っているわけではない。 僕の部屋の区分所有者から借りて住んでいるのだ。

というわけで、自分が住んでいるマンションではあるが総会に出る権利もないし、町会から脱退することにも関与できない。

マンション全体でオーナー居住比率がどんなものかはわからないが、サラリーマン相手にマンション投資が広告される時代だしどんどん下がっているのではないかと思う。

こういう時代、町会なんかはオーナーからしたら自分がサービスを受けるわけでもないのに金は取られる存在だ。 一方で町会に入っていても借り手にアピールできるわけでもない余計な存在なのだろう。

自分が住んでいたら、付き合いもあるしなんとなく入り続けてしまうかもしれない。 が、投資用物件として見るなら、単に利回りを悪化させる帳簿上のお邪魔虫でしかないのかもしれない。

というわけで僕は結局結果がどうなったのかすら知らないわけだ。

地域に住んでいるのは自分なのに、地域との関わりについての権利は持たされず疎外されているのだ。

株式会社と投資信託

この現象と似ているなと思ったのが、株式会社と投資信託。

Wikipedeaソースではあるが、最初の株式会社は1602年のオランダ東インド会社であるそう。

一方で、投資信託というのは、19世紀ごろに誕生したそうだ。 以下のサイトの記述の読み方次第であるが、日本では1941年から投資信託というものが始まったのだろうか。

manabow.com

株という制度の意味

会社の株を持つというのは、成り立ちから考えれば「ある事業に対してリスクをおかしてでも参加する」ということだ。

その価格が上がるか下がるかというのも、株主総会での決議に参加することで責任の一端は株主側にもある能動的な行動の結果なのである。 金があればビジネスを大きくできると主張する経営者を信頼して金を託す。事業自体には見込みがあるはずなのに、リードする経営者がダメそうならより適した人を選ぶ。これが株主になるということだ。

しかし投資信託では、自分はその事業に参加すること抜きで株主としての責任はファンドに持ってもらって、自分は値動きだけをみていれば良いということになる。 株から「参加」という要素を取り除いて単にブラック・ショールズ式でモデル化される値動きをする(と期待される)、現金よりボラティリティが高い資産としての側面だけが残った。

所有と経営の分離、その次

元々株式会社の仕組み自体が、所有と経営を分離するものだが、投資信託はさらに「所有」の方も「出資」と「所有」を分離しているというような感じだろうか?

投資の本流は、自分が信じた事業へという能動的な行為からプロにお金を増やしてもらう/プロが他人の金を増えそうなところに割り当てるという受動的な行為へと変わってしまった。

僕も投資信託を買っている。でも実際どんな株に投資されているのかはよく知らない。

一応、クリーンテックへの投資はつづけているが、今実際どこに投資されているのかはわからない。 投資先選びのポリシーの文章を読んで、このポリシーなら資源にささえられる権威主義体制への依存度を減らすことに貢献したいという意図に関係ありそうだとえらんではいるが。

k5trismegistus.me

お金の出し手の僕が投資してほしいところという意向を表明する場はなく、ファンドマネージャーが僕のお金の使われ方を決めるのだ。

これのさらに先を行くのがGPIFで、年金という形で有無を言わさず集めた金で多くの日本企業の筆頭株主になっている。

www.jcp.or.jp

投資の広まりと試される民主主義

liquitous.com

民主主義のアップデート系の話はいくつかあり、なかでもうまく言っている方のもので液体民主主義という考え方がある。

液体民主主義は、委譲民主主義(Delegative Democracy)とほぼ同義とされ、代表制民主主義と直接民主主義の中間に位置付けられる、集団的な意思決定の一方法である。液体民主主義においては、①有権者は、自己の権限行使を他者に委譲する受動的な個人(Individuals)となるか、自己及び委譲を受けた他者の権限を行使する積極的な被委譲者(Delegates)として活動するか役割の選択を行う(被委譲者は、代表制民主主義における代表者と類似の役割を担うが、人数の制限はない)、②さらに、被委譲者は、どの分野でどの程度活動を行うか選択し、分野ごとに、委譲を受けた権限を含む自らが持つ権限の行使を他の被委譲者に再委譲することができる、③被委譲者が行使する権限の強さ(最終的な投票の局面における票数)は、委譲を受けた有権者の数に比例するとされる。また、液体民主主義においては、誰もがオンライン上で法案を提案し、他の参加者からの修正を経て最終的にオンライン上での投票(online referendums)に付されることが可能となり、参加型の政策形成が実現されるとされる。

『代表制民主主義と直接民主主義の間ー参加民主主義、熟議民主主義、液体民主主義』(五野井郁夫, 社会科学ジャーナル85, 2018)

こういう考え自体は決して悪くないと思う。けどひとつ割り引いて考えないといけないこともある。 「液体民主主義」を取り入れてうまくいっているような団体は存在する。でもそれは、おそらく構成員も民主主義の状況に危機意識を持っている「意識高い」ひとたちで成り立っているだろう。 そのまま社会全体に適用可能なのだろうか?

数年に一回の選挙ですら面倒がっていかない人が、継続的な参加なんかするだろうか?

民主主義の、人々の意見を吸い上げる方法の改善について考えること自体は無意味ではないし、大いにやるべきだろう。 しかし前の記事で考えたことなのだけど、民主主義がよい社会を生み出すには結局のところ、人々の意識改革がともなう必要がありテクノロジーで解決できるものじゃないような気がしている。

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