さらに前記事に続いて、ガンダムの話。 予告通り、思想の変遷について読解してみる。
富野思想の理解
「ニュータイプ」の時代:1stからZZまで
ガンダムの代名詞とも言える「ニュータイプ」。
通常の人間よりも優れた空間認識能力やテレパシーに近い能力がある人間である。そしてこのニュータイプに関しては、人類が皆ニュータイプになれば戦争がなくなるという目標が示された。
このニュータイプが現れるのは宇宙に移民した人々の中からであるというのが示唆的で、これは「地球」の1G重力下という原始生命から人類に至るまで生きてきた物理法則とは違う物理法則のもとで生きるという刺激によって人類の能力が進化するということだ。
別に実際に宇宙で生活するかは別にして、人類に新たなタイプの刺激を与えることでニュータイプが生み出されるのではという仮説はあったものの、それがいったいなんなのか結局わからなかった、というのがこの時代の結論なのだと思う。
富野:『ガンダム』を20年近くやってきて、はっきりと行き詰まりを感じました。行き詰まりを感じた一番の理由が「ニュータイプ論みたいなものを立ち上げておきながら、それをハウツーとして示すことができなかったこと」です。『ガンダム』をやっているうちに冷戦は終わったのだけれども、じゃあ冷戦が終わったからと言って世界中がまとまっていくかというと、まとまってはいかなかった。具体的に言うと、それぞれ主要国家のトップにいる人物たちが、必ずしもニュータイプ志向を持ってる人ではなかったという現実を突き付けられたからです。それで挫折するしかなかったということです。
富野:僕の場合は作品を世に出すことで、「ニュータイプを出す」という具体的な命題があったんだけど、それに挫折して敗北してしまったんです。 現実問題として、ニュータイプを世に出すことはできなかったことは、現代の政治を見ても感じます。
それは、僕がやろうとしたニュータイプにさせるような教育みたいなものをできなかったのが悪いという言い方もできます。 人をニュータイプにさせることはできなかった、ごめんなさいと。
機動戦士ガンダム
機動戦士Zガンダム
機動戦士ガンダムZZ
「ニュータイプの行き詰まり」:逆襲のシャア・F91
富野監督が自分が生み出したニュータイプという概念を諦めたきっかけは、冷戦終結後も戦争が終わらなかったことだという。
ニュータイプの時代では、「自分がどうにかしなければ」という責任感を感じていたわけだが、この時代からは自分がどうにかしなければという意識は薄れていく。
逆襲のシャア・F91では人類が増えすぎたことを過激な手段(アクシズ落とし・バグ)で解決しようとする陣営が出てくる。
これを「人類皆をニュータイプにしようというのは、別に命を奪おうというわけではないが自分のヒロイズムに酔っている解決策なのでは?」という迷いが現れているとみる。
地球は!人間のエゴ全部を飲み込めやしない!(シャア)
人間の知恵はそんなもんだって、乗り越えられる!(アムロ)
ならば、今すぐ愚民共すべてに叡智をさずけてみせろ!(シャア)
この問いに対してアムロはまともに答えない。
この二人のやりとりは人類全体を巻き込む問題を一部の大人が勝手に自分たちがどうにかしなければと性急に解決しようとすることは果たして正義なのか?という自分に対する問いなのではないか。
戦争や虐殺に限らず人類を「ニュータイプ」に変えるというのもエゴなのでは?と。
つまり逆襲のシャアではシャアが過去の富野監督、アムロが現在の富野監督が投影されていると言えるだろう。
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア
機動戦士ガンダムF91
「積極的先送り」:Vガンダム
Vガンダムの制作はユーゴスラビア紛争に大きく影響を受けたらしい。 先に引用したインタビューにある、冷戦後も世界がまとまっていかなかったというのを日本からでも感じさせる出来事だったと思われる。
(なぜユーゴスラビア紛争がそんなに注目されたのか?は色々事情があるが。)
しかしそのような暗い時代でもありつつ、思想的には「ニュータイプの行き詰まり」が肯定的に前に進んでいる。
クライマックス近くの会話を見てみよう。
生き物は親を越えるものです。親は子を産んで死んでいくものなんです。その真理を忘れているこの作戦はもともと敗れるものだったんですよ。(ウッソ)
増えすぎた人類こそ真理を踏み越えたのだ。そういう人類は消えたほうがよい。(カガチ)
ひとりの頭でっかちの老人のおかげで、人類が全滅するなんて。 僕たちが新しい方法を編み出して見せます。(ウッソ)
自惚れるな。 その自惚れが人類を間違えさせたんだぞ。(カガチ)
僕らが出来なければ、次の世代がやってくれます。(ウッソ)
問題を先世代に先送りにするというとよくないことのように聞こえる。しかし、解決してくれるかもしれない先の世代を大切にしようという意識がセットになっていればいいわけだ。 数学的帰納法みたいな話だが、問題はいつになっても解決しないかもしれないが人類は永続できる。
それが富野監督的なニュータイプなのかはわからないし、どうやって解決されるかも分からない。分からないのなら次世代に解決してもらえるように次世代を大切にしよう!と。
いまでもインタビューではニュータイプという言葉自体は使われているが、あまりこの言葉を大事にしている感がないというか、、とりあえず自分にはないポジティブな行動様式をもつ若者をとりあえずニュータイプと言っているように聞こえる。
機動戦士Vガンダム
∀ガンダム以降
∀ガンダムからは正直思想的なものはあまり読み解けなくて、「積極的先送り」の結果人類が遥か遠い未来でも存続している様子を描いてみたというのが意味づけなのではないかと思っている。
∀ガンダム以来の監督をしたGのレコンギスタという作品の感想を書いている人のブログにも同じようなことを書いていた。 Gのレコンギスタ自体を僕は見ていないのでなんとも言えないが。
「人類が永遠に存続する方法」というと、すごい壮大な話に見えるんだけど、よく考えたら、人類が不老不死になるとかそういうのはちょっと無理なので、基本的には「子どもと孫が不幸にならないといいな」という気持ちです。これも監督がインタビューで前から言ってることですが。 自分が死んだ後も世界は続いていくし、その自分が死んだ後に生きる人たちも愛したいという気持ちです。
このブログの人がみる通りならVガンダムが思想的に富野監督の到達点になっており、後はそれを子どもたちに伝え続けて「後は任せたから」というのを伝えたいのだろう。
次回予告
このように富野監督の思想は変遷してきたと考えているが、Vガンダムがその到達点として最重要であると言えるだろう。 というわけで、次回はVガンダムのことを振り返ってみようと思う。単純に一番好きだったシリーズでもあるし。
というわけで次回がガンダム記事シリーズの最終回になる予定ですが、
「見てください!」