総「仕事」社会──アーレント『人間の条件』を読みながら考えたこと

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↑の記事は、ここから書く内容のための踏み台でした。


いま、二冊の本を並行して読んでいる。

ハンナ・アーレントの「人間の条件」

と、楠木建の「ストーリーとしての競争戦略」

の2冊。

どちらもまだ読み終わっていないのだが、アーレントを読んでいて、2年前に自分がブログに書いたことと、いま感じつつあることが思いもよらずつながってきたので、まとめておきたい。

アーレントの「人間の条件」をざっくり理解するための準備

本題に入る前に、アーレントの「人間の条件」の中で掲げた概念を簡単に紹介。 アーレントは人間の営みを大きく3つに分ける。

1. 労働(labor)

  • 生きるための反復作業
  • 家事、食事準備、介護など
  • やってもすぐ消費されて残らない

2. 仕事(work)

  • 人工的なものや制度をつくる行為
  • 家や道路、組織やプロダクトづくり
  • 世界に「形が残る」

3. 活動(action)

  • 誰かとともに言葉を交わし、新しい出来事を生む行為
  • 会議、討論、政治的参加、企画立案、祭りの組織など
  • ここで人は「自分が誰か(唯一性)」を表す
  • 最も“自由”で“人間的”な領域とされる

そして彼女は、近代社会では労働・仕事の領域が膨張しすぎて、 人が自由に語り行為する「活動」の空間が失われていると危惧した。

かつての自分の考え

2年前の自分は、アーレントに近い感覚を持っていたのだと思う。 こんなことを書いていた。

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しかし人がみんな金を直接生み出す活動だけに夢中になっていたらどうだろうか。個人消費も伸びない・子供も生まれない・生まれても教育はなされない、、どんどん社会全体としては貧しくなっていく。

周りがしがらみ活動に従事している中、自分だけ金稼ぎに没頭していたら稼げるのも事実。 だからこそ囚人のジレンマ的な状況に置かれてみんな貧しくなろうとしているのが今の日本ではないだろうか。

アーレントのいう「活動」の領域は、専業主婦や退職者といった「仕事をしていない人たち」によって担われていた。 しかし共働き・延長雇用が進み、こうした人々がいなくなるにつれ、社会は労働と仕事の比率が高まり、共同体の“豊かさ”が失われているのではないか。

もちろん、これは昭和のジェンダー分業が正しかったという話ではない。 アーレント自身も、古代ギリシャの政治的活動を評価しつつ、奴隷や女性の犠牲の上に成り立っていたことを認めていた。

人間の条件を読み進める中で持った違和感

アーレントのふれた古代ギリシャでは、「市民」は戦士として戦い征服した異民族を働かせることで、自分たちを労働から解放した。

自分がみた日本の祭りにおいても、多くは女性に労働を押し付けることで成立しているのでは、、と感じる光景を何度か見た。

活動というものには、誰かの犠牲の上に成り立っている側面がある。 犠牲なしに成り立っている活動というのは、歴史的になかったというだけでなく、実は構造的に存在しないのではないか?と思い始めた。

活動って、ほんとうに「開かれた自由の領域」なの?

アーレントが「活動」と呼んだものは、

他者の前で語り行為し自分が「誰であるか(唯一性)」を示す

という営みだ。

ここで重大なポイントがある。

  • 活動は「承認」されてこそ

活動は、他者に見てもらえなければ成立しない。 承認が必要で、そこには構造的な“希少性”がある。

  • 活動には先行者利益がある

そして「唯一性」を示すためには、 誰でも無限に承認されるわけではない。 同じことをしても、先にやった人が唯一、後にやった人は模倣者になる。

これらの理由から、活動は、活動に多くをさける人にしか承認の座が残っておらず、 労働や仕事をしながら「活動」に手を出したところで、参加できる余地は残されてないんじゃないか。

労働や仕事から解放された、特権階級でないと意味のある「活動」はできないように思えてきた。

労働と仕事のほうが「自由で開かれている」?

活動は“自由”に見えるが構造的に閉じられている。 奴隷や家族に労働を押し付け、自分は「活動」に精を出せる古代ギリシャの「市民」のような特権階級が承認を得て、 新たな参入者には承認されうるような座はほとんど残されていない。

その一方で「ストーリーとしての競争戦略」の方を読んでいて思ったのが、「仕事」の領域の可能性。

美しいビジネスモデルを組み立てられる唯一無二な経営者はもちろん金銭の報酬も大きく、そして「承認」も得られるだろう。 でも、そういった唯一性を発揮できない人でも、誰かに代替されうる存在だったとしても、きちんと働き分は報われる仕組みになっている。

そう考えると、評価が金というコモディティで行われる労働・仕事のほうが、参加者に対してはるかに開かれているのではないか? 活動よりも労働・仕事のほうが「開かれた自由の領域」たり得るのではないかという思いを持つようになった。

活動を「仕事」に翻訳するという発想

それを思うきっかけが再開発地区の祭りだったと思う。 「活動」を「仕事」としても成り立つようにした方が、実は公共空間になる。

ヒントは「活動を仕事として持続可能に変換すること」にある。

全ての活動を仕事に!

活動のクラウドファンディングサービスみたいなのが求められるかもしれない。 生活者が自分の住む地域のページを開くと、「10万円で夏祭り企画運営します キッチンカー5台保証」みたいなプロジェクトが並んでいる。 自分の住む地域で夏祭りやってはしいなぁという住民が多く寄付をする。 そして、これまでは地域のさまざまな見えない人の犠牲の上に成り立っていた

給料が上がって生活が楽になるサイクルができればこれが一番いいのかもしれない。 これまでは住む地域が先にあって、その地域で祭りだ清掃だと駆り出される、それがコミュニティだった それが、祭りが好きな人が地域を超えてつながったコミュニティが日本中いろんなところで祭りをやる、それが祭りだったり清掃だったりになればよい。

次回予告

またありがたいことに、ネット上引きこもりの自分にもこんな記事を書いてみませんか?というお誘いが。 id:popmusik3141 さんより

nejimakinikki.hatenablog.com

しかも、

普段ブログを読ませてもらっているはてなブロガーをコールしてみようかと。

「普段ブログを読ませてもらってる」、、!

何年か前にも、その時は人づて(id:musiccloset)で同じお誘いがあって答えてみたことがある。

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「インターネット」技術を使って社内メッセージこそあれ、いわゆる「インターネット」で活動の領域的な交流を滅多にしない自分。 SNSも見ないしインターネットで議論することもない。けどせっかくなので、これはという質問に絞って答えてみようかなと。